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大洪水と虹
厳しく躾られた子供が窓の外の激しい雨を見つめながらノアの大洪水を思い浮かべています。ノアの大洪水のようなものすごい洪水が起きてすべてを流し去ってしまえば良いのにと。この詩のリアリティは、春と秋に大雨が降った時の、ムーズ川の氾濫や、雨上がりの郊外のアルデンヌの草原や森で、ランボーが実際に見た体験を土台にしているからと思われます。
大洪水の「望み」は、原文では「思想、考え idee 」となっていますが、ここでは続く情景と、この詩の最後に「また「大洪水」を引き起こせ」と、大洪水の再来を切望していることから、あえて「望み」と訳しました。原詩を直訳すれば、「大洪水」の思想が再び座る(腰を落ち着ける)とすぐに」となります。
ところが、大洪水が起るかと思わせた激しい雨も止んでしまい、青空がのぞき、太陽が顔を出し、空には虹がかかります。野ウサギがまだ濡れている草原に出てきて立ち止まり、前足を上げています。それはお祈りをしているように見えます。野ウサギは臆病な小動物というイメージですが、今の日本ではそのイメージがあまりないので、あえて臆病者と付け加えました。イワオウギは原語では「サンホワン」という発音であり、サンは聖なるもののサン(セイント)と同じ音です。イワオウギの花は古い教会の燭台のように見えます。釣鐘草はもちろん教会の鐘です。イワオウギは以下のサイトを参照してください。
http://home.scarlet.be/emelin/botapi/planches/onobry.html
そして平穏な生活を望む一般の人々のシンボルとなったこの野ウサギは水滴がビーズのように付いているクモの巣(フランス語では網)を透かして、虹にお祈りを上げます、「神様、大洪水になりませんでした。ありがとうございます。」と。虹はノアの大洪水の後に現れた神と地上の契約の印です(注1)。そしてクモの巣は人間(地上)のネットワークを暗示しています。たとえばインターネットの
WWW はワールド・ワイド・ウェッブ(クモの巣)です。ここではカトリックという地上のネットワークを象徴していると見ることもできるでしょう。
クモの巣に付いたキラキラした水滴はやがて消えてしまいます。水滴を見つめるように頭を垂れていた花もやがて上を向いて開きます。この詩の終わりの開ききってしまった花とも対応していて、花が眼を見ひらいている、つまり花が開いてしまう、隠されていた秘密が明らかになり色褪せてしまうという意味も含まれているように取れます。
ノアの大洪水の後には慎ましい人々の生活が新たに始まったとされます。太古の文明の多くは洪水により運ばれてきた肥沃な土壌の上に創られてきました。洪水は全てを流し去る自然の力であるとともに、新しい文明を開く力でもありました。だが、大雨はすぐに止んでしまいました。そして今までどおりの人々の日常生活が戻ってきます。雨に洗われた大通りもゴミや動物の糞で汚れ、そこでは市場がまた開かれます。市場に物資を運んできたり、運び出したりするのは鉄道ができるまでは水運に頼っていました。そして市場は水運の便の良いところのそばに作られました。市場では取引が行われ、増水した河には物資を積んだ船が曳かれて行きます。なお、この時代のヨーロッパの都市の街路は馬車が主要交通機関であつたことも含め、かなり不潔だったことが記されています。
人々の生活とともに、人間の残虐な行為も復活します。肉屋の屋台には殺した動物が並べられます。屋台は、語源的には肉をさばいて売る台であり、屋台全般、商品陳列台を意味するようになりました。「青ヒゲ」は妻をつぎつぎに殺した物語の主人公、闘技場とは「シルク」つまりサーカスですが、語源であるギリシャ・ローマの円形闘技場(コロセウム)を指していると思われます。ノアの大洪水の後、地に戻ったノアとその息子たちへの主の言葉、有名な「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。…(創世記、第9章)」のところに、「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。…人の血を流す者は、/人によって、血を流される。(4節〜6節)」(「新改訳聖書」(1973年日本聖書刊行会)より)という言葉があります。神の言葉に背いて血を流しているところには、神の印、おそらく契約の印である虹が現れ、人々は神を恐れて青ざめたという意味でしょうか。
ビーバーはダムを造り、あふれた水をせき止めます。直訳すると、ビーバーは建てた、となります。ここでは、水をせき止める建造物としてダムと訳しました。ビーバーには働き者という意味があります。ボーヴォワールのソルボンヌ時代のあだなは「ビーバー(カストール)」でした。ガリ勉君といったところでしょうか。日本語ではイメージが取りにくいと思って働き者という説明を付け加えました。働き物のビーバーは、かなりの範囲にわたってダムを作り、決壊して、時に水害を引き起こすこともあるそうです。次の「マザグラン」はアルジェリアの地名で、1840年のここでの戦闘により伝えられたグラスに入れたコーヒーの名前になりました。一般的には、冷ましコーヒーを指すようですが、熱いものも、ブランデーを入れたものもあります。コーヒーの呼称としては、今ではあまり使われていないようです。また、マザグランコーヒーをいれる逆三角錐形の足つきのグラスのこともマザグランと呼びます。ネットで検索したら、グラスの販売の紹介が幾つもありました。当時の北フランスには、コーヒーに蒸留酒(オー・ド・ヴィー)を入れた飲み物があったことがステンメッツの伝記に書かれています(邦訳
P.130-131および訳注27)。ランボーは言葉のイメージで「マザグラン」を選んだと思われます。「マザグラン」は小文字で書かれた普通名詞ですが、大文字で書かれた固有名詞とすれば、「マザグランの人々」となり、「湯気を立てる」は「タバコをふかしている」とも読むことができます。ここで、ランボーは眼で読む言葉と耳で聞く言葉で意味が違ってくるという二重の意味を持たせて遊んだとも考えられます。カフェ・バーは原詩では
estaminet で、(北フランス)のアルコール飲料も出す小さな大衆的なカフェのことです。ベンヤミンの「パサージュ論」には、19世紀中頃のパリのカフェに関する引用があります。「かつて、煙草は、下層階級の人々しか行かないエスタミネ〔居酒屋〕と呼ばれる特別の場所だけで吸われていたが、いまではいたるところで吸われている。」(注2)とあります。つまり、タバコを吹かす場所でもあったわけです。
ヨーロッパの古い村の中央には広場があり、高い塔のある教会が建っていることが多いです。水のしたたるあの大きな建物(家)は教会を指し、ガラスとはステンドグラスでしょう。その中で子供たちが「驚異の映像」を見つめています。あるいは、産業革命の当時、イギリスで建てられたガラスと鉄骨のモダンな建造物のイメージをダブらせたのでしょうか。
突然、扉が閉まる音がして、教会から逃げ出したあの子は、村の中央にある教会の前の広場で風見たちと一緒になって雨と風を楽しんでいます。それはダダをこねているようにも見えます。
少年の夢想は、村を取り巻く白銀をいただく山々にまで広がっていきます。だが、そこにも退屈な文化と宗教が押し寄せてきます。19世紀後半のヨーロッパ(とくにイギリス)では、すでにアルプス観光がご婦人方に人気でした。現在のフランス・アルプスの冬の高級リゾート地クルシュベルのスキー場には、立派な劇場があります。
人々は未知の大陸にまで商取引に出かけていきます。そして、極地も観光旅行の対象となり、豪華絢爛なホテルが立てられます。
「タイム」は和名は「たちじゃこうそう」「百里香」で、地中海沿岸に自生する低木のハーブで、ブーケガルニなどに使われます。チモールが取れ、消毒作用があり、ギリシャ・ローマ時代には全身の消毒に使われたといわれます。また、勇気を表す草とされます。ドラエーが「親しい思い出
Souvenirs familiers 」にランボーと散策したシャルルヴィル近郊にタイムが自生してい場所があったことを書いています。この節は、アルデンヌの風景がアレンジされて描かれていると思われます。「ジャッカル」は狼とともに犬の祖先です。この部分は滅びてゆく野生の自然を擬人化して描いています。「ユーカリス
Eucharis 」については、フェヌロン作の「テレマック」に出てくるニンフという解釈が一般的です。 フェヌロン(1651−1715フランス)は司教で文人。テレマックはギリシア神話の王、オデュッセウス子テレマコス。ユーカリスはオデュッセウスをオギュギア島に引き止めた海の精カリュプソの仲間です。P.ブリュネルは、ランボーがこの戯曲を知っていたのか疑問だとし、ギリシャの美神
la Grace のことではないかと書いています。grace は、フランス語では恩寵という意味になります。また、eucharistie にはカトリック用語で聖体という意味があり、英語の
Eucharist は、元は教会ギリシア語からの教会ラテン語から来た、聖体、感謝の祈りという意味です。このニンフの名前には、大洪水が収まり春が訪れたことに対する神への感謝が暗示されているのでしょう。
ランボーはここで再び大洪水の到来を願います。原文では「池」となっていますが、たとえば大正池のような小さな山の湖をイメージしていると思われます。次の「林(
bois )」は、植林という意味があるので森( foret )ではなく林と訳しました。自然の中の人工物を洪水が押し流していきます。「黒い布」は黒雲であるとともに、教会内の喪の布でもあります。「大オルガン」は雷鳴であるとともに巨大なパイプオルガンの音でもあります。次の「稲光」と「雷鳴」は前の2つのものの言い替えです(稲光はエクレールであり、派生語のお菓子のエクレアは黒雲の形をしています。光っているチョコレートから来たそうですが、私にはエクレアそのものが雷雲のように見えます)。
大洪水のなくなった世界には退屈な日常しか残されていません。これでは、中世のキリスト教社会への反抗のシンボルであった魔女は、この退屈な社会を破壊する火種のことをぼくたちには教えてくれないでしょう。なお、この魔女のことを、ランボーの母親と取る説もあります。
この詩には、短命に終わってしまったパリ・コミューンへの追憶があると思われます。プレイヤッド版(A.アダン編)の注によると、イブ・ドゥニ(
Yves Denis )は、この詩全体をパリ・コミューヌとその後の社会に関連付けて解読しています。
革命を洪水と捉えることは、フランス革命(1789)の時からあったと考えられます。コルドリエ・クラブで、カミーユ・デムーランは「理性のカによって専制
主義が溺れるのがフランスだけだというのでは十分でない。地球全体が水浸しになり、あらゆる国の王座が基礎からくつがえされ、洪水の中に浮かぶようでなければならない……。スウェーデンから日本まで、それはなんというすばらしい光景であろうか!」(「物語 フランス革命」より引用、安達正勝著/中公新書/中央公論新社/2008年発行)
注1)
ノアの大洪水と虹について
旧約聖書、創世記、第9章9節から17節まで、ノアの大洪水後に現れた神と地上の契約の印である虹について書かれています。繰り返し書かれているので一部を抜粋します。
「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。/わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。/わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。/わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水(おおみず)は、すべての内なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。…」(「新改訳聖書」(1973年日本聖書刊行会)より)
つまり、野ウサギは、神の契約によって大洪水が起こらなかったことに感謝して、虹に祈りを捧げています。
紀元前8000年頃のヴェルム氷期に地球は寒冷化し、その後、次第に温暖化していき、紀元前4000年頃の温暖化ピークを迎えたとされます。紀元前3500年頃、地球温暖化により海水面が上昇し、メソポタミア地方が大洪水となり、これが後に旧約聖書のノアの大洪水の話となったという説があります。
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注2)
出典
パサージュ論/ヴァルター・ベンヤミン著/今村仁司・三島憲一ほか訳/岩波現代文庫の第4巻7−8ページから引用。「パリのカフェの歴史 ― ある遊び人の回想からの抜粋」パリ、1857年、91−92ページと元々の出典が記されています。なお、引用した箇所の「いたるところで」は「パリのさまざまなカフェで」という意味でしょう。
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解読掲載:2000年10月3日、2003年7月10日、2008年8月24日追加
2000-11-22:
「大洪水の後」補足説明「野ウサギとクモの巣」をランボー私訳・エッセイに掲載
2002-07-07: 「ノアの大洪水」と「虹」についての旧約聖書の記述による説明を追加
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