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ランボー appendix

翻訳について

 私はランボーをフランス語では「イリュミナスィオン」から読み始めました。そして、読んでいくうちに、「地獄での一季節」「後期韻文詩篇」、さらに「初期詩篇」も読むようになりました。ランボーの書いた時間軸を逆にたどった訳です。
 「イリュミナスィオン」の「大洪水の後」「少年時代」あるいは「首都の鉄道」「野蛮人」などの動的な映像と特異な叙情性に強く惹かれました。「イリュミナスィオン」は、書き始めた時点では完成の構成図を持たず、言わば彼が実際に生きた世界の視像の海の中を「酔いどれ船」である詩人ランボーが航海し、その船窓から見えた映像のように思えます。写真、CG、ショートビデオなどの CD-ROM あるいは DVD-ROM のような作品だと思っています。「イリュミナスィオン」が書かれた時期は、1872年の春から1874年の夏か秋にかけて書き上げられたものと思われますが、いわゆるブリュッセル事件をはさんだこの期間の作品に、秩序ある構成を求めることは無理だと思っています。
 「見者の手紙」に書かれたように「我が他者になり」書かれた作品として、個々の作品をできるだけランボーの書いた時点に近づけようと思って翻訳しています。ランボーという詩人あるいは貿易商人の人物像、作品世界の俯瞰図を作成するのは、読者の皆さんに委ねたいと考えています。

 「ハイ、先公!
 また先公になったんだって。みんな社会に尽く義務があるって、あんたはおれに言ったけどさ。先公になってエリートまっしぐらだね。――おれだって、おれが原理なのよ。おれはハレンチにタカリしてるんよ。ガッコ時代のチンピラどもを見つけ出しては、馬鹿やエロやワルを、教えてやったりおれもやったりして、ジョッキや娘っ子をたかってんすよ。「キリスト様が十字架にかかりゃ、聖母様も悲しみに立ち尽つくす」ってとこさ。おれも社会に尽くすべき、そのとおりだね、だから、おれは正しいことをしてるんよ。――あんたも、まぁ今の所はそれなりにね。結局、あんたは、原則として主観的な詩しか考えていないわけだ。大学の教壇へのこだわりようからも――失敬!――そいつが分るんよ! まあ、あんたはいつも、何もしようとしないで何もできなかったというマスターベーション野郎として墓場まで行くだろうね。おまけに、あんたの主観的な詩は、いつになってもザリウンだろうさ。…」
 これは、イザンバール宛の「見者の手紙」の一部です。この手紙を読んでいると、慇懃無礼を通り越した、おれは先生を超えたんだ、あんたには分からないだろう! という傲慢な、そしてどこかまだ甘えの残ったランボーの言葉が聞こえてくるような気になります。もと優等生が、思いっきり高ビーにワルぶって見せているような印象もあります。そういう気分で訳してみました。

 翻訳してつくづく思うことは、日本語はニュアンスの多い言葉だということです。たとえば「JE(私)」は「ぼく」「おれ」「わたし」の3つの言葉が該当します。しかも、たとえば「僕」と「ぼく」では、文字を見たときの印象が違います。今では、若い女性も「ぼく」「おれ」人によっては「わし」を使います。人と人の上下関係、細かな感情を表現できる代わりに、気をつけないと情緒が前に出てきて、論理や概念がボケてしまう危険性があります。映画や劇などの会話であれば、上の例のような訳でも良いのかも知れません。逆に上の「見者の手紙」の場合は、「あなた」にあたる「 vous 」を「先生」と、日本の優等生の手紙風に訳すこともできます。しかし、この手紙の最後の方に「あなたはぼくの「教師 enseignant 」ではありません。」と彼自身が言っているのですから、「先生」と丁寧に訳してしまうと、かえって皮肉たっぷり、あるいはギクシャクと感じられてしまうような気がします。こういうことを考えていくと、読み物としての訳は、あまり(こちらの感じる)感情を出さないほうが良いように、私には思えてきます。

 「地獄での一季節」を訳し始めて、別の日本語のニュアンスを考えさせられました。たとえば、「このことは夢見てもいなかった」と「こんなことは夢見てもいなかった」を訳文の日本語として比較した場合、後者の方が読みやすいです。でも、訳を進めながら考えた結論は、原文がはっきり「このこと」である場合は「このこと」と訳してしまった方が良いのではないかということです。ひとつふたつではなく、たくさんの数が重なっていくうちに、文章全体の意味合い、ニュアンスが原文からズレてきてしまうのではないかと思うようになりました。でも、文字で読む場合と朗読したのを聞く場合では、また違ってくる部分もあると思われます。
 逆にフランス語の方が細かい部分には、不定冠詞と定冠詞の違い、単数と複数、時制などがあります。定冠詞や複数表記については、日本語で「…たち」などとあえて表記しなくてもイメージがとれると判断した場合はくどくなるので特に訳出しませんでした。逆に特に意識してランボーが書いていると判断した場合は、あえて訳してみました。たとえば「地獄での一季節」ですが、「 Une Saison en Enfer 」というタイトルです。でも、「地獄の季節」という意味であれば「 Saison d'Enfer 」になると思います。ただし、「 d'enfer 」はそれだけで「地獄のような」という意味になってしまいますから、「 de l'enfer 」「あの地獄の」と定冠詞を付けるかも知れません。「一」あるいは「とある」という不定冠詞「Une」は、この季節が特定のものではないということをランボーなりに強調したかったのではないでしょうか。「地獄での一季節」の最後の「永別(別れ)」の終わりの文章に「ひとつの魂とひとつの肉体の中に真実を所有する」という言葉がありますが、神の絶対から解き放たれた相対的な一個人の「地獄での一季節」なのでしょう。

 英語の辞書に較べ、フランス語の辞書は数も少なく、早い時期の翻訳者ほど難しかったと思います。辞書通りには訳さないにせよ、辞書によって翻訳のときに選べる言葉が違ってきてしまうと思います。また、どうしてもその翻訳者の生きた時代や思想、あるいは言葉の中で作業しなくてはなりません。そういう意味で、翻訳とは楽譜を読んで楽器を演奏するような面があると思います。ランボーの書いたフランス語の詩そのものは変わらなくても、翻訳された詩がいろいろ変わることはおもしろいと思っています。新しければ良いというものでもありません。でも、フランス人の読者にも、同じフランス語でもその時代なりに違って読めていることでしょう。

2001年9月20日 Kunio's Note に掲載

掲載:2001年7月、2003年4月

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