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ランボー エッセイ・私訳

私とイリュミナスィオン

 ランボーを読むまで、私が特に興味を持ったことはシュールレアリスムの絵画や前衛映画だった。ダリ、ミロ、クレー、エルンスト、マグリッド、マンレイ、タンギー、マッタ、さらにポロック、ジャスパージョーンズ、スーパーリアリスムのアメリカ絵画にも興味を持っていた。それは退屈で嫌な現実から逃れたいというささやかな願望だったかも知れない。やがて、シュールレアリスムの絵の背後にある方法論が知りたくなり、翻訳でアンドレブルトンの「シュールレアリスム宣言」とかエリュアールの詩を読むようになった。シュールレアリスムの先駆者とされたランボーの訳詩も読んだ。私が今でもわずかに覚えているのは「永遠」。始めに読んだときは伝記的知識がほとんどなかったため、この詩が男と女の性の詩だと思った。いろいろなことが不確かなまま時が過ぎていった。フランス語で原典を読めば何か分かるかもしれないと思うようになった。

 大学で一年間フランス語を学んだ。今振り返れば、とても本が読めるというレベルではなかった。フランス文学科に進み、私と同級のS君が中心となり、すぐに自主ゼミを開いた。テーマはランボーの「イリュミナスィオン」、これはなぜかすぐに決まった。顧問を高畠正明氏にお願いした。

 校庭の中庭にあるモルタル二階建てのゼミ校舎か図書館の地下の自習室で、毎週ゼミは開かれた。私たちはガルニエ版の順序に従って読んでいくことにした。とにかく「大洪水の後」を自分たちで読んだつもりだった。「大洪水は起こったのか」「鎮まったのは大洪水ではなく、大洪水のideeと書かれているが、これは何か」と高畠氏に質問されて答えに窮した。「フランスの象徴派の詩、特にランボーの詩は抽象的に見えても、非常にコンクレト(具体的)なものを素材にしている。」「言葉ひとつひとつの意味を自分で納得できるまで追求して把握しないと本当の意味で読んだことにはならない。」と言われた。

 ランボーの「イリュミイナスィオン」は、「地獄での一季節(1873)」の後に書かれたとされている。筆跡鑑定は1874年とされる。ランボーはヴェルレーヌと別れ、「永別(別れ)(1873)」を書いた後にも詩を作った。少なくとも清書をし作品をまとめる意志があった。以降、彼が生活上の必要からアフリカに渡り、詩作に興味をもたなくなったとしても、ランボーの復活と詩の再生はゼミのメンバーにとってランボーを読むひとつの動機だった。イリュミナスィオンには言葉だけの永遠の世界が、少なくともその入口を見つけられるように期待していたように思う。

 現代のように多様なメデイア、たとえば映画やビデオなど音と動く映像を伝えるメディアの発達する前の時代だったが、産業革命により新しいメデイアは漠然とにせよイメージされてきたと思われる。ランボーは詩であらゆる感覚を表現することを目指した。アフリカでは写真を撮影している。絵画では印象派が誕生した。詩は韻文詩という枠から開放され、ヴェルレーヌは音楽性を追及し、ランボーは映像性を追求した。しかし、ランボーの詩も、やはり読む詩でもあった。私は充分解読できないまま朗読を繰り返し暗記した。日常の中でふっと思い出すフレーズが解読を助けてくれた。

 原文でランボーを読み出したことと直接は関係無いが、私が驚いたのは彼の意志と方法の覚醒だった。これは彼の性格だったようで、プティフィスの伝記的作品に詳しく書かれているがアフリカに渡ってからも困難な事業を執拗に遂行しようとする。「イリュミナスィオン」や「地獄での一季節」の彼独自の言語表現を可能にしたのは、才能、時代、運(あるいは運命)の他に、意志と方法があった。すべてなんとなく生きてきた私にとって、そしてもはやランボーが詩を書かなくなった年齢になっていた私にとって、それは重い認識だった。

 冬の朝まで、「人生(Vies)」という詩を読んでいた。「おお、聖地の大道、寺院の境内! おれに「格言の書」を説いてくれたバラモン僧はどうなったのか? …… ここに追放されて、おれはあらゆる文学の劇的傑作を演じる舞台を手に入れた。…」という始まりだった。最初のインドの聖地の情景は「ここ」の説明である。それは1873年、ヴェルレーヌと別れた後、ロッシュの実家に戻り、納屋で「地獄での一季節」を書いたことと読める。すると始めの部分はシャルルヴィルの情景だろう。「ああ、シャルルヴィルの並木道、学校の校庭! 僕に新しい文学を教えてくれた先生(イザンバール)はいかがお過ごしだろうか?」 というような内容だと分かる。現実の情景をインドの情景に置き換えて表現することで、内面を表現しようとしたのだろう。あるいは、少年の日にインドを夢見て遊んだ幻影を思い出したのかもしれない。

 目の前の事物がそのまま異空間、異時間に見えてしまうということに興味を持った。それは写真でよく言われる既視感:Deja vu(デジャヴィュー)とも似ているが、むしろ逆のプロセスのように思えた。もうひとつ私の心を捉えたのは、いわゆる「見者の手紙」のなかの「自分が見たもの(未知のヴィジョン)の知的理解力を失ったときに、それを本当に見ることができたのだ」という言葉だった。象徴的に、あるいは自己陶酔的にわざと暈かした言葉、映像は理解できないものとは言えない。では、理解できないものとはどんなものだろうか。絵画も言葉も、これから私の道具になるとは思えなくなった。それまではなんとなく写してきた写真が、現実を別のシーンに変えて見せる道具になると思った。

 「人並みの体格の男よ、肉体は果樹園に吊り下がった果実ではなかったのか、――おお、少年の日々よ!――体は浪費すべき宝ではなかったのか…(「青春時代」より)」 イリュミナスィオンの、ヴェルレーヌと別れてから書かれたと思われる詩には悔恨と虚無が反映している。自分の得たビジョンを定着してしまおうという意志も見える。おそらくイリュミナスィオンは「後期韻文詩」をヴェルレーヌの影響下に書きだした頃から、ランボー独自の見者のプロジェクトととして計画されたものと思われる。1872年の初夏に取りかかり、1874年に仕上げられた作品だろう。「別れ」以前の作品が半数より少し多い。私が大学の卒業論文にしたのは、イリュミナスィオンの解読と、書かれた時期の推定であった。そしてランボーには出口が見えなかった。

 ある程度後になって、自分が読んだランボーをもう一度文字に定着しようと考え、翻訳を試みた。文字に定着することで客観的に距離を置いて見ることができ、楽になると考えた。しかし、読解が不充分なことの他に、日本語訳がどうしても自分がそれまでに読んだ翻訳を連想させてしまった。数年前から、またふと思い出しては訳を試みてきた。少し形にまとまってきたのでホームページに掲載しながら進めて行くことにした。それが出口になってくれると良いと思う。

2000年10月21日
門司 邦雄

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