mer 1998, Doll & Doll Photo: Dollhouse Noah, CG: Kunio / eyedia.com

酔いどれ船

おれが無情の「大河」を流れ下ったとき、
船曳きの綱は感じられなかった。
騒がしい「インディアン」が、船曳きを的にと捕まえ
色とりどりの杭に身ぐるみはいで釘付けにしてしまった。

おれは船乗りのことはすっかり忘れ、
フランドルの麦かイギリスの綿布を積んでいた。
船曳きの騒ぎがおさまるとすぐに
「大河」はおれが望むがままに流れ下らせた。

潮の猛り狂った波音の中で
去年の冬、子供たちの頭よりも聞き分けなく、
おれは走った! 動き出した「半島」も
あれほど勝ち誇った大騒ぎはしなかった。

嵐がおれの海での目覚めを祝った。
ぼやけた灯火の目を懐かしむこともなく、
生贄を永遠に転がすという波の上で
浮きよりも軽やかに、十夜続けて、おれは踊った。

子供たちには酸っぱいリンゴの果肉より甘い、
緑の水が、おれの樅の船体に染み込み
舵も錨も流し去り、
安酒と反吐の染みを洗った。

それ以来、おれは星の光をあび、
緑なす青空をむさぼり、乳色に染まり、
「海の詩」に浸った。青白く恍惚と漂う、
物思いにふける水死人がときおり沈んでいく海。

青い波を一瞬のうちに染める太陽の、
赤いきらめきを映す熱狂と穏やかなリズム、
アルコールより強い、おれたちの竪琴より広大な
あの愛の苦い赤茶色の染みが発酵する海!

おれは知っている、雷に裂ける空も、竜巻も、
怒涛も潮の流れも。おれは知っている、夕暮れも、
一群れの白い鳩のように、騒ぎ立った「夜明け」も、そして
おれは人間が見たと信じた物を、ときおり見たのだ!

おれは見た、神秘的な恐れに染まって、
果てしない紫の群れ雲(訳注1)を照らす、沈む太陽を、
いにしえの劇の俳優のように、
大波がよろい戸の震えをはるか彼方に転がすのを!

おれは夢見た、目のくらんだ雪の緑の夜に(訳注2)
ゆっくりと海の目に登るキスを、
未聞の精気の循環を、
歌うたう燐光の黄と青の目覚めを!

おれは追った、大の月、マリアたちの輝く足が
のろまな大海原の鼻面を
抑えこめるとも知らずに、
狂乱した牛のように暗礁を襲う大波を!

おれは衝突したんだ、人の皮膚をしたヒョウの眼が
花に混ざる不思議なフロリダに!
水平線の下、海緑色の羊の群れへ
手綱のように張り渡された虹に!

おれは見た、巨大な沼地が発酵するのを、
イグサ(訳注3)の中でリヴァイアサンが生きたまま腐る簗だ!
なぎのまん中で崩れる海と
渦に向かってなだれ落ちるはるかな眺めを!     

氷河を、銀の太陽を、真珠色の波を、燠火の空を!
黒い香りとともに、よじれた木々から、
南京虫に喰われた大蛇が落ちる
茶色い入江の底の忌まわしい浅瀬(訳注4)を!

子供たちに見せてあげたかった、
青い波間のヘダイ(訳注5)も、金の魚も、歌う魚も。
― 走り出すおれを泡の花がゆすり、
ときどき心地よい風が翼をくれた。

ときおり、海はすすり泣きながら、おれを優しくゆすり
黄色い吸い玉のある黄土色(訳注6)の花を、掲げてくれた
極地にも赤道帯(訳注7)にも飽きた殉教者の、このおれに
おれは女のように、ひざまずいたまま留まっていた…

船べりに群れた騒々しいブロンドの目をした鳥とフンを
揺すりながら、おれは島のように留まっていた
それから、おれは、か弱い止め綱を横切って
眠れる水死人が沈んでいったときに、後ずさりした(訳注8)!…

ところが、ハリケーンに鳥も飛ばぬ天空までも飛ばされ、
入江に茂る髪の下、おれは沈んだ船となり、
モニター艦(訳注9)でもハンザの帆船でも、おれの
水に酔いつぶれた骸骨を引き上げられるはずもない。

紫の霧に乗り、気の向くままに、煙をはき、
巧みなる詩人好みの甘いジャム、
太陽の苔と青空の鼻汁を積み
おれは、壁のように赤く映える空に穴を穿っていた、

燃える漏斗(訳注10)の渦巻く群青の大空を
7月が棍棒で打ち崩していたときに、
おれは、電光の三日月(訳注11)に染み、黒い海馬を従えて、
狂った板子のように駆けていた。

怪獣ベヘモの発情か激しい大渦潮か(訳注12)
50海里はるかにうめき声を感じ、おれは震えていた
おれは、動かぬ青の永遠の紡ぎ手
古い胸壁のあるヨーロッパを懐かしむ!

おれは星の群島を見た!
熱狂的な空を航海者に開いた島も。
― 百万の金の鳥よ、おお、未来の「生気」よ、
この底なしの夜の中に、君は眠り潜むのか? ―

だが、本当に、おれはあまりにも泣いた!「夜明け」は痛ましい。
月はすべてむごく、太陽はすべて苦い。
辛い愛が、恍惚とした麻痺でおれを満たした。
おお、竜骨よ、砕け散れ! おお、おれは海に沈みたいのだ!

もし、おれが今でもヨーロッパの水を望むなら、
かぐわしいたそがれどきの暗く冷たい池
悲しみに満ちてうずくまった男の子が、
五月の蝶のようにか弱い舟を放す。

おお、波よ、おまえの憂鬱に浸り、おれはもう
綿布を積んだ船を追い抜くことも(訳注13)
旗をたなびかせておごった船を横切ることも(訳注14)
囚人船(訳注15)の恐ろしい目の下を泳ぐこともできないのだ。

フランス語テキスト

翻訳掲載:2001年10月21日、2003年11月22日一部訂正


難破船

 ランボーの詩の中で、単独でもっとも有名な詩は、この「酔いどれ船」と「地獄での一季節」の「永別(別れ)」ではないでしょうか。ところが、この詩は私の頭の中に、あまり映像を残していません。私が幼いときに見た映画「海底2万マイル(?)」の青い海の中のノーチラス号の映像が邪魔をしているようです。
 この「酔いどれ船」と同じ時代の作品で「マルドロールの歌 第1の歌」の「老いたる海」の部分もとても魅力的です。産業革命、蒸気船により海が地球を征服するための交通交易手段であった時代、深海が残された神秘な深淵であった時代です。
 この詩は16歳のランボーがヴェルレーヌの招きでパリに出たときに手土産として携えていった詩です。見者のコンセプトのイメージ化と幻視者ランボーの当時のパリ文壇に対する自分の才能の奢ったプレゼンテーションが読み取れます。また同時に、この詩は、ランボーからの、まだ会わぬヴェルレーヌへのラブレターでもあったと思われます。
 この詩には、ランボーの主要テーマである「水と太陽」が結び合う性的な陶酔(第7節他)と、崩壊への願望(第23節他)が色濃く反映しています。ムーズ川の落日の反映、黄金の水面、「長いこと夕日のもの寂しい黄金色の泡立ちを見ている(「少年時代 W」/「イリュミナスィオン」)」少年は、見者というヴァーチャルリアリティにより、船になります。後期韻文詩篇の「思い出」では、ムーズ川の舟で遊んだ幼いランボーの姿を自ら描いています。そして同じく後期韻文詩篇の「我慢の祭り」の「永遠」では、水(海)と太陽の結合を象徴的に歌い上げています。「酔いどれ船」に関しては、具体的な事象、高踏派、パリ・コミューン、パリの詩壇などと結びつけて読まれることも多いですが、私はイメージ重視で読んだ方がふさわしいと思っています。。
 まだ海を見たことがないランボーが、ボードレールの仏訳によるエドガー・アラン・ポーの「アーサー・ゴードン・ピムの冒険」(1837)やジュール・ヴェルヌの「海底2万海里」(1870)を始めとする読書体験と、シャルルヴィルのムーズ川で遊んだ幼少年時代の体験を想像力で結び付けたこの詩は、そのリアルな幻想で、現代の3DCGアニメーションを思わせます。機会があれば映像化してみたいですね。ランボーの「酔いどれ船」はミシシッピ川を下り(第1節)、フロリダの入江に座礁します(第12節)。マーク・トウェインの「トム・ソーヤの冒険」は1876年なのですが、当時のアメリカは、ヨーロッパに比べ、文明に汚されていない自由と冒険と自然のある国とイメージされたのでしょう。アメリカが舞台に選ばれたのは、エドガー・アラン・ポーの影響なのでしょうか。「トム・ソーヤの冒険」より早く舞台になったミシシッピ川の流域は、かってフランス領であり、フランス人の作った町が多いためでしょうか。あるいはアメリカ最大の川のロマンからでしょうか。
 「酔いどれ船」は、船曳きたち、つまり川岸から綱で船を上流に曳く曳き手たちが、インディアンに襲われて船のロープを縛りつける杭に縛り付けられたため、自由になり、大河の流れに身をまかせて流されて行きます。
 この詩のテーマは、ボードレールの詩集「悪の華」から影響を受けたという指摘もあります。以下は、末尾の詩「旅」の最後の「[」です。

死よ、老いた船長よ、時間だ! 錨を上げよ!
ここは飽きた、おお、死よ! 船を出せ!
空と海がインクのように暗くても、
君が知る我らが心には光が溢れる!

励ましのために、君の毒を我らに注げ!
この毒が脳を焼くように、地獄だろうが天国だろうが?
未知の底に「新しい事」を発見するために、
我らは奈落の底に沈みたいのだ!

 この詩の翻訳にあたり、できるだけシンプルに、叙情性よりもシーンが見えることを重視して翻訳しました。たとえば「 des archipels sideraux」 は、直訳すると「恒星の群島」ですが、「星の群島」とシンプルに訳しました。「星座の群島」「輝く星の群島」「星のきらめく島々」など、印象や抒情を伝える形容はなるべく避けました。一行ごとの抒情性よりも、各シーンの映像性とシーンの(あるいは詩の文法的)繋がりを重視しました。従って、倒置した文の順序を入れ替えた個所もあります。韻文詩は、韻、リズム、区切りなどにより、言葉が制限されます。日本語訳ではこの制約が無いものと考え、イメージが取りにくい個所は、意訳しました。フランス語のテキストには出典に関して細かい注がありますが、、なんとなくイメージの取れる言葉に関しては訳注は付けませんでした。なお、タイトル「酔いどれ船」は、他に良い言葉が見つからず、従来どおりのタイトルとしました。


訳注1) 「果てしない紫の群れ雲」は、直訳では「長い紫の塊」で、ボードレールの落日の比喩から取られています。
なお、この第9節の構成は、ガルニエ版では1行目末がピリオドであり、ポショテク版ではカンマです。ここではポショテク版に従っています。
訳注2) この第10節の構成は、ガルニエ版、テクスチュエル版では1行目末がカンマ無しで、ポショテク版ではカンマです。ここではテクスチュエル版に従っています。なお、続く第11節の「大の月」は、31日ある月のことですが、意味することは分りません。
訳注3) 「イグサ(藺)」は茎は花筵、畳表、芯は灯心とします。灯心草は異称です。リヴァイアサンは旧約聖書ヨブ記に出てくる巨大な海獣です。「生きたまま」は直訳では「一匹丸ごと」です。
訳注4) 「浅瀬 echouages 」は、座礁、座州、乗り上げ場所の意味です。座礁船という訳もあります。
訳注5) 「ヘダイ」はクロダイに似た鯛の一種です。
訳注6) 「黄土色ombre」は「影」と解釈することもできます。
訳注7) 「赤道帯」は、原詩では「帯域」なのですが、イメージが取りにくいので「赤道帯」と訳しました。
訳注8) 原詩「 a recoulons 」は「 voguais 」に続いていると取ります。
訳注9) 「モニター艦」は、アメリカの南北戦争時からの喫水の浅い小型装甲船、「ハンザ」は「ハンザ同盟」のことです。
訳注10) 漏斗は竜巻のイメージでしょう。さらに漏斗には、砲撃で地上にできた(漏斗状の)穴という意味もあります。次の行の表現も含め、政治暴動、革命的なイメージが感じられます。複数の7月の意味は、1789年7月のフランス革命(バスティーユ監獄襲撃)、1790年7月の建国記念日式典、さらに1830年の7月革命と、複数形によって革命の暴動をイメージ化したのではないでしょうか。
訳注11) 直訳すると電気の三日月となります。ジューヌ・ヴェルヌの「海底2万里」のノーチラス(オウム貝)号からのイメージとされています。ノーチラス号の動力源は電気でした。具体的には明るく見える船体の丸窓のことでしょう。なお、電気照明の発明は、1815年にデーヴィ(英)がアーク放電の実験をしたのが始まりとされます。19世紀中頃からはアーク灯が灯台の灯りとして使用されました。1878年スワン(英)が白熱電灯の発明しますが、長時間使用できる白熱電球は1879年エジソン(米)により発明されました。「海馬」はギリシア・ローマ神話のヒッポカンプス。馬頭魚尾の怪獣。なお、タツノオトシゴの意味もあります。日本語の「海馬」はトドの意味もあり、セイウチ、タツノオトシゴの異名でもあります。なお、ポショテク版では第19節と第20節の間は行空きがありません。
訳注12) ベヘモは旧約聖書に出てくるカバに似た怪獣。「大渦潮」は「マエルストロム」で、ノルウェー北西海岸の渦潮だそうです。
訳注13) 「船を追い抜くこと」は、直訳では「航跡を奪うこと」
訳注14) 「旗をたなびかせておごった船を横切ること」は、直訳では「旗や三角旗のおごりを横切ること」
訳注15) 「囚人船」は原詩では「 pontons 」でこの節の2行目の「綿布 cotons 」と音を合わせています。意味は「浮き橋」「船橋」「平底船」ですが、牢獄として用いられた平底船という意味ととり、「囚人船」と訳しました。C.Dジャンコラは、パリ・コミューヌで、捕虜となった多くのコミュナールがブレストで囚人船 pontons に収容されてニューカレドニアに送られたことを、ランボーが想起していると説明しています(テクスチュエル版の注より)。

解読掲載:2001年10月21日、2003年4月14日更新、11月29日追加


  Page Top