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コミューン応援歌
この詩は1871年5月15日、ドムニーに宛てた「見者の手紙」に挿入された3篇の詩のひとつであり、「時節の聖歌」として最初に置かれています。タイトルを、「パリ市民の
Parisien …」と訳しましたが、古いテキスト(印刷された原詩)では「パリの parisien …」となっているものもあるようで、「パリの軍歌」という邦訳タイトルが多く見られます。手書き原稿写真版では、はっきりと大文字で
Parisien と書かれ、さらに右側に Quelles rimes! O! quelles rimes! と書かれています。rimes は、韻というより(韻文)詩の意味で、「なんて詩だ! ああ! なんて詩だ!」という意味でしょう。口語的で言葉遊びの多いこの詩は、旧い詩への挑戦として書かれた面があるのでしょう。ポショテク版とテクスチュエル版の注記を手がかりに翻訳しました。
この詩が書かれた時点では、パリ・コミューンは、すでにコミュナール側の敗色が濃い状態でした。1871年4月には政府軍による砲撃が行われ、この詩はその時の状況を描いていると思われます。しかし、この詩には開き直りが感じられます。開き直りというより、見者の詩法を覚醒したランボーの強がりなのでしょうか。あるいは、その時シャルルヴィルにいたランボーには、不確かな情報しか入らなかったのでしょうか。
訳注1)
原文直訳は「緑の所有地」となります。政府軍(ヴェルサイユ軍)のパリ郊外の緑の多い陣地を表しているとされます。
訳注2) 1797−1877 1871年、ボルドー国民議会での行政長官に指名されます。パリ・コミューヌを鎮圧、後に第3共和制の初代大統領に選出されます。
訳注3) 1821−1877 チエールに任命された内務大臣(現在の日本国なら官房長官でしょうか)、資産家。(テクスチュエル版、C.ジャンコラの注)
訳注4) 原文の vol は、飛行と盗みと二つの意味を持ちます。
訳注5) 激しい戦闘が行われたパリ近郊の町。(テクスチュエル版、C.ジャンコラの注より)
訳注6) 原文 schakot は、前立て付き筒型軍帽、通常は黒色。
訳注7) 原文は tam-tam 、タムタムで北アフリカの太鼓、ここでは皮肉で使われていると思われます。
訳注8) J.ムーケはトロンボーンのピストンの意味と取らえていますが、C.ジャンコラは、兵隊の装備と解釈しています。
訳注9) 原文は yoles で、ジョリー艇。将校用の艦載ボートの意味で、この行の表現は「昔、小船があったとさ」というシャンソンの「それ(船)は、ぜ、ぜ、ぜんぜん進まなかった…」という歌詞のもじりと指摘されています。(P.ブリュネルとC.ジャンコラの注より)
訳注10) ブーローニュの森の湖とされています。
訳注11) 原文の des Eros (デゼロ)は、(性)愛の神、エロスたちという意味ですが、音として捉えると、英雄(
Heros )、ゼロ( Zeros )と同じになります。また、2行下の行末、画家のコロー( Corot )とも韻を合わせています。
訳注12) 和名はキダチルリソウ、ギリシア語で太陽に向いて回るという意味から付けられた名前だそうです。良い香りがし、19世紀にフランスに伝わり、恋の花とされたそうです。
訳注13) 1796−1875 フランスのバルビゾン派の画家。石油が燃えている空を喩えたとされています。私は、バルビゾン派がフランスの田舎の風景をテーマにしていたことから、田舎者という意味も含ませているのではないかと考えています。
訳注14) 「トリック Truc 」は、「トルコ Turc 」との言葉遊びがあると思われます。C.ジャンコラは、具体的にドイツ帝国宰相ビスマルク(1815−1898)と読んでいて、私も妥当な解釈と思います。1871年の普仏戦争にフランスは敗北し、ウィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿で戴冠式を行い皇帝となり、ビスマルクは初代宰相となります。パリの臨時政府がドイツ帝国と不利な講和条約を結ぼうとしたことが、パリ・コミューヌの発端となります。
訳注15) グラジオラスは葉が剣の形からラテン語の剣( gladius )から来た名前です。グラジオラスは打ち負かされたコミューヌ兵士の武器(剣)を象徴しているのでしょう。
訳注16) 1809−1880 当時の外務大臣。C.ジャンコラは、ビスマルクの一徹さに涙を流したと書いてあります。
訳注17) 原文直訳は「君たちの石油のシャワーにもかかわらず」となります。石油爆弾という解釈もあります。
訳注18) 大地主、自作農という意味も含まれるのでしょう。
訳注19) 意味がはっきしない比喩です。激戦、肉弾戦のたとえと思われます。
解説掲載:2004年9月1日
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