フランス語朗読

永別 (注1)


 秋だ、すでに(注2)!  ― だが、なぜ永遠の太陽を惜しむのか、おれたちが神聖な光の発見にこの身を捧げているのなら、 ― 季節の上に死にゆく人々からは遠く離れ。
 秋だ。よどんだ霧のなかに立ちつくすおれたちの小舟は、あの悲惨の港、空にある火と泥で汚れた巨大な都市(注3)へと舳先をまわす。ああ! 腐ったボロ着、雨に打たれたパン、泥酔、おれを十字架にかけた数知れぬ愛欲(注4)! これでは、「あいつ(注5)」は、死に「そして裁かれる」数知れぬ魂と肉体を喰らう女王、あの女食屍鬼をやめることはないだろう! 皮膚は泥とペストに蝕まれ、髪の毛にも脇の下にもうじ虫が這い、心臓にはもっと肥えたうじ虫が巣食い、年齢も感情もない(注6)見知らぬ人々の中に倒れているおれの姿が目に浮かぶ… おれはあそこで危うく死ぬところだった… 恐ろしい記憶だ! おれは悲惨を憎悪する。
 おまけに、おれは冬が怖い! 冬が安らぎ(注7)の季節だからだ。
  ― 時折、おれは歓びあふれる白色民族に占領された果てしない浜辺を空に見る(注8)。おれの上では、朝のそよ風の中で、黄金の巨船が色とりどりの旗をはためかす。おれはあらゆる祭りを、あらゆる勝利を、あらゆるドラマを創った。新しい花々、新しい星々、新しい愛欲、新しい言葉を発明しようと努めた。超自然の力を手に入れたと信じた。だが! おれは己の空想と思い出を埋葬しなければならない! 芸術家と作家の輝かしい栄光が奪われたのだ!
 あらゆる道徳を免除され、魔術師(注9)とも天使とも自ら名のっていたこのおれが! 探し求めるべき務めと抱きしめるべきごつごつした現実とともに、土に戻される! 百姓だ!
 おれは騙されているのか? おれにとって、愛(注10)とは死のようなものなのか?
 最後に、おれは嘘でこの身を養ってきたことを謝ろう。さて、行こう(注11)
 だが、友の手は無い(注12)! どこに救いを求めるのだ?


 そうとも、新しい時は、少なくともとても厳しいのだ。
 おれは勝利を手にしたと言えるのだから、歯ぎしりも、火のあえぎも、臭いため息も納まった。汚れた思い出はことごとく消え去る。おれの最後の未練が逃げてゆく、 ― 乞食、ごろつき、死の友、ありとあらゆる落伍者への嫉妬だ。 ― 地獄堕ちらめ(注13)、仕返しができたら!
 徹底的に現代的でなければならない。
 賛美歌(注14)はない。勝ち取った歩みを続けるのだ。辛い夜だ! 乾いた血がおれの顔で湯気を立てている、おれの背後にはあの恐ろしい善悪の潅木があるだけだ… 精神の戦いも人間の闘いと同じように残酷だ。だが、正義の光景は神ただひとりのお楽しみだ。
 しかし、今はまだ前夜だ。流れくる精気と真実の優しさは受け取ろう。夜が明けたら、燃えるような忍耐で武装して、おれたちは輝く大都会(注15)に入るのだ。
 友の手についておれは何を語ったか! とても有利なことに、おれは昔の偽りの恋人どもをあざ笑い、あの嘘つきの夫婦どもを辱めることができるのだ、 ― おれはあそこに女どもの地獄を見た。 ― そして、おれには「ひとつの魂とひとつの肉体の中に真実を所有すること」(注16)が許されるだろう。

1873年4月−8月

フランス語テキスト


注1) この詩のタイトル「永別Adieu」は、「別れ」、「訣別」とも訳されます。日常語の「さよなら」は「Au revoir.」で、「Adieu」は「A(〜へ)」+「dieu(神)」からも分るように、長期の、あるいは永遠の別れを意味します。この詩は、ランボーの見者(詩人、天使、予言者)とヴェルレーヌ(友の手)への「永別」の、そして後半は新しい人生の宣言として書かれています。ランボーの文学との別れを書いた詩は、「イリュミナスィオン」にも「人生」「青春時代」「祈り」などがあります。この詩が決定的に違うところは、序文にも書かれているように、まずヴェルレーヌという具体的な人に宛てられているということであり、かつ、「地獄での一季節」の幕を閉じるドラマとして、宣言として書かれていることでしょう。
注2) L'automne deja ! は倒置的表現です。2005年11月に Deja l'automne... という出だしの宣伝メールが送られてきました。この詩は8月に書き上げられたのですから、随分早い秋です。季節の秋だけでなく、サルトルの「マラルメ論」に書かれたような当時のパリの詩壇の「秋」と「落日」への嗜好に対するランボーの決別がこの一節に密かに示されていると思います。(ちくま学芸文庫/マラルメ論/ジャン=ポール・サルトル著/渡辺守章・平井啓之訳/筑摩書房、P.118参照)
注3) 「巨大な都市」は具体的にはロンドンのことでしょう。「小舟」は冥府への舟であるとともに、「イリュミナスィオン」の「運動」でランボーとヴェルレーヌの若夫婦が乗った「箱舟」も暗示していると思います。
注4) amour は肉体的な愛も含んでいます。ヴェルレーヌの手紙に書かれた「十字架への道」でしょう。
注5) 「あいつ(=彼女) Elle 」は、ここでは「女食屍鬼、女吸血鬼 goule 」のことで、ジャンコラは墓地で死体を貪り喰らうオリエントの伝説の妖怪 genie と解説しています。具体的に何を示しているのかについては様々な説があります。「彼女 Elle 」は、「イリュミナスィオン」の「苦悩」の中にも「女吸血鬼」として登場します。死、キリスト教、体制など様々な解釈があります。「永別」の「彼女」は死後の裁きを受ける魂を喰らう女王なのですから、キリスト教がイメージ的には近いように思えますが、ランボーもひとつの言葉で表せない社会的圧力を「彼女」と表現したと考えることもできます。この「彼女」には、ランボーを遺志に反してシャルルヴィルの墓地に埋葬した、信心深く厳しかった母親の影を見る評家もいます。
ヴァン・エイクの「最後の審判」にも、地獄に覆い被さっている骸骨の妖怪が描かれています。
http://www.wga.hu/art/e/eyck_van/jan/01page/03tript2.jpg
注6) この「年齢もなく感情もない」を倒れているランボーの方にかける訳もあります。
注7) 安らぎ comfort は英語のスペルですが、19世紀フランスでも使われたとジャンコラの注にあります。古フランス語から英語となり、設備の整った快適な生活という意味で使われ、フランスに逆輸入された言葉です。ランボーは、「快適な生活」という意味で、「イリュミナスィオン」の「運動」「大安売り」で使用しています。ここでは、屋内で暮らす故郷アルデンヌの冬の厳しい生活のイメージですが、意味としては安楽、安逸だと思います。
注8) 「悪い血筋」に描かれた植民地での異教徒ランボーのシーン「白人が上陸する。大砲だ!…」を思い出します。
注9) mage は、(ゾロアスター教の)司祭、魔術師、占星術師と言う意味です。キリストの生誕に訪れる東方の三博士も Mages です。未来を予測する、社会を変革するという意味で、以前は預言者と翻訳していましたが、本来の宗教上の預言者 prophete と誤解されないように直しました。かって自ら宣言した見者 voyant のことでもあると思います。
注10) この「愛」は「愛徳 charite 」です。神と人に対するキリスト教的愛、同胞愛、人間愛を意味します。この一文は、「*****」(序文)の「愛 charite がその鍵だ。」に対応し、ランボーのキリスト教の救済に対する結論と読めます。
注11) 篠沢秀夫は、allons を感嘆詞と読んで Et も含めて「まあね」と訳しています。私は感嘆符が無いこと、謝罪して去る、だが…という文意の流から、Et も含め文字通りに読みました。
注12) 「友の手」は、「友」は女性形であり、正確には「女の友の手」という意味になります。「友 ami, amie 」という言葉は広い意味があり、「恋人」とも読めます。見者である地獄の夫ランボーの愚かな妻ヴェルレーヌの手のことでしょう。
注13) 「地獄での一季節」の「不可能」「閃光」にも書かれているように、当時のフランス、パリの詩人を含むアーティストや思想家などを指していると思われます。
注14) cantique は聖書では賛歌、雅歌の意味として使われる言葉です。意味が取りやすいように讃美歌と訳しました。「正義の光景は神ただひとりの…」の文に続いていると思います。
注15) この「輝く大都会」の「大都会 villes 」は、都市あるいは町の複数形です。いろいろな解釈がありますが、文化・思想ではなく経済・産業の中心としての「大都市」を指していると考えます。最初の「巨大な都市」が、再び捉えなおされたのでしょう。具体的にはロンドンを指していると思いますが、同時に「イリュミナスィオン」で描かれる「大都会」でもあります。なお、エルサレム、バビロンを想起した表現と読む評家もいます。
注16) 原文ではイタリックで強調されたこの部分は、ランボーの結論を要約しています。「ひとつ」には、不定冠詞の「 un, une 」が用いられています。見者を捨て、ヴェルレーヌも捨て、ひとつの体とひとつの心という相対的な地上の一存在に戻ることが示されます。ジャンコラは宗教(キリスト教)が分離させた肉体と魂の結合を見ています。


翻訳・注掲載:2001年11月29日、2002年11月3日、2006年3月8日、4月1日更新

  Page Top