後期韻文詩編
夏の、朝4時には、
愛欲の眠りはまだ続く。
木立の下では暁が、浮かれ騒いだ
夜の香りを立てる。
だが、向こうで、ヘスペリデスの太陽に向いた
広大な仕事場では、
シャツ一枚で、大工たちが
もう動き回っている。
苔の荒地の中で、ひっそりと、
彼らは豪華な羽目板をしつらえる
そこには町の富が
偽りの天の下で笑うだろう。
ああ! このかわいい「職人たち」のために
バビロンの王の臣下たちのために、
ビーナスよ! 心に冠を頂いた「愛人たち」を
しばらく放っておけ
おお、「羊飼いたちの女王」よ!
真昼に海で水浴する前に
あの労働者たちにブランデーを持って行け、
彼らの力が安らかなように。
フランス語テキスト
翻訳:門司 邦雄
掲載:2002年5月13日、2006年4月13日
ブランデー
タイトル「朝の名案 Bonne pensée du matin」は「朝の良き想い」「朝の良き想念」とも訳されています。pensée は、思考、考え、思想という意味で、感情的な「思い」ではないので、「良い考え」イコール「名案」と訳しました。花のパンジーも、その花が考えている人の顔に見えることから付けられた名前で、つづりも発音も同じです。なお、この詩は少し書き換えられて『地獄での一季節』の「錯乱 II 言葉の錬金術」に引用されています。
ランボーが1872年6月に友人ドラエーに出した手紙に当時のランボーのパリでの生活、とくに朝の生活風景が書かれ、この詩の内容とも関連が見られます。
「木立」は原詩では bosquets、「言葉の錬金術」では茂み bocages が使われています。いずれにせよ、ヨーロッパの庭園あるいは公園での男女の逢引の場所を指していると思います。ヘスペリデスは、ギリシア神話で、世界の西にある庭園で永遠の命のリンゴの番をしているニンフ、「夕べの娘たち」です。娘たちのひとりはヘスペリアという名前であり、三人はヘスペリスとも記されています。ランボーは薄明るくなった町の広い建設現場に差し込んだ朝の太陽の金色の光を、ヘスペリデスの太陽、つまり永遠の太陽と喩えたのではないかと考えています。「バビロンの王」は古代バビロニアの王のことなのでしょう。バビロンは現在のバグダッドの南80キロメートルにあった古代都市で、バビロニア王国第一・第二王朝の首都です。紀元前25世紀-紀元前9世紀以降は第三王朝です。第一王朝第6代ハンムラビ王(在位紀元前1792年頃-1750年頃)はバビロニアを統一して首都バビロンに大帝国を建設し、法典を制定しました。旧約聖書(創世記11章4-9にはノアの大洪水の後にバベルの塔が建設され、エホバの神の怒りにふれた記述があります。バベルの塔はバビロンに建てられた巨大なジッグラッド(神殿)が伝説化されたものと言われています。王には単数の不定冠詞が付いていますから特定はされませんが、ネブカドネザル2世をイメージしているとされます。神殿、宮殿の建設、エルサレムを陥落させ、捕虜を首都バビロンへ連行した「バビロン捕囚」で知られています。パリの建築工事に従事する労働者を、天にそびえる巨大な神殿の果てしない工事に従事する人々に例えたのでしょう。「羊飼い」は「恋人」という意味でもあります。なお、篠沢秀夫は、「心に冠を頂いた en couronne 」は、ヴィーナスの輪 couronne de Venus (梅毒第3期)を(特定はできませんが)連想させるという指摘をしています。
ランボーの「朝の名案」とは、ヴィーナスが貴族やブルジョワの恋人たちから離れて、海(河のことかも)で水浴びする前に、働き者の労働者(大工)たちに気付けのブランデーを持っていくということなのでしょう。ただし、ブランデー l'eau de vie は、蒸留酒という意味であり、必ずしもブドウの高級なブランデーではありません。今の日本語として考えれば「焼酎」という言葉の方が近いイメージかも知れません。
この名案は、ランボーにはめずらしく非現実的で楽しい想定です。だから「名案」「よき想い」なのでしょう。朝の光は、実は西の園の光、つまり夕日です。ギリシア神話のヘスペリスも、バビロン王もキリスト教世界ではありません。ヴィーナスもギリシア神話のアフロディテのことでしょう。パリには海はありません。現実がそのまま幸福な古典神話の世界に繋がっているところが、この詩の楽しさなのでしょう。
解読:門司 邦雄
掲載:2002年5月13日、2002年7月8日、2006年4月13日
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