ランボー イリュミナスィオン

― はじめに ―

 ランボーを読み始めてから50年以上になる。何とか自分の言葉で読めるようになってから、やっと20年。その間インターネットが発達し、AIも翻訳等に進出するようになった。
 自分が読み始めて足かけ30年以上、ランボーは自分の言葉にならなかった。指導してくれた先生の、「ランボーはコンクリートなものを核としている」という指摘は理解はできたが、具体的な彼の文章はぼくの頭には残らなかった。
 ぼくは幾つかの詩に確定的な言葉を探し当てて、その周りを自分の言葉で埋めていった。それがある程度溜まって、ネットにスぺ―スを持つことができた。
 ぼくの今の疑問は:「精神の戦いは人間の戦い同様に、残酷なのだ。」(地獄での一季節) これは1873年時のランボーの結論だったが、果たしてその認識はどの位続いたのだろうか。

 私のランボーを一緒に読んでくれ、検討も加え、ネットに載せてくれた ichico へ感謝の言葉を贈りたい。サイトエントランスのランボー肖像画(油絵)を提供してくれた外川龍一郎氏、撮影許可や画像提供をしてくれたアーティスト各氏、朗読パフォーマンス「 Les Anges 」舞台、ランボー広場BBSなどご協力いただいた方々、闘病中の今なお応援してくださっている全ての方々に感謝を贈りたい。
 ジャンコラ、ブリュネル両氏にも感謝の言葉を贈りたい。さらに、ネット上にランボーに関する様々な情報を惜しみなく提供している ARTHUR RIMBAUD LE POÈTE に感謝を贈りたい。

門司 邦雄
2021年1月8日

― お知らせ ―

 フランスの詩人 Arthur Rimbaud(アルチュール・ランボー)の詩を 門司 邦雄 が翻訳・解読しているサイトです。アートサイト eyedia により制作・運営されています。
 各詩は邦訳、フランス語テキスト外部リンク(一部除く)、解読(訳注・注・資料映像および外部リンク含む)で構成されています。生業が撮影とコピーライトだったことから、イメージ映像(アーティストとのコラボおよび提供含む)の掲載、またほとんどの詩の解読はタイトルのあるユニークなエッセイスタイルを取っています。資料の「R・V掲載リスト」で一覧をご確認いただけます。
 門司邦雄の「翻訳について」はこちらです。なお、外国人の場合、翻訳者や解読者の名前に称号等を付けないので、日本人の場合も「氏」等の敬称は省略させていただきます。ご了承ください。
 このウェブサイトが、ランボーがつづった世界を、時空を越え、みなさまなりに読んでいただけるヒントになれば幸いです。

― 2021年4月11日(日)更新 ―

― 2021年1月8日(金)リニューアル更新 ―

 『イリュミナスィオン』の全詩の翻訳・解読を2015年春に終え、2020年秋から全翻訳・解読見直しとともにサイトデザインも一新し、この度リニューアル更新いたしました。スマホやタブレットなどでもより読みやすく考慮いたしました。ただし、PC優先で制作しておりますので、スマホなどではコンテンツが乱れる場合がありますのでご了承ください。また、資料カテゴリーの「ランボー広場BBSログ」については、投稿当時の掲示板機能が古いためフランス語テキストアクサンなどが抜けている場合があります。極力、正しい表記を心がけておりますが、合わせてご了承ください。

 今後は翻訳中・制作中のコンテンツアップ、また主に英語ページの更新を予定しております。『イリュミナスィオン』各詩のPDF制作も検討中です。ご感想やご要望などのメッセージ、出版や取材などのお問合わせは、コンタクトからご連絡ください。みなさまのアクセス、メッセージをお待ちしております。

 今後とも『Rimbaud.KunioMonji.com』をどうぞよろしくお願いいたします。

サイト制作者 ichico / eyedia
2021年1月8日

イリュミナスィオン

詩人ランボーが文学に与えたインパクトは、果たして何だったのだろう。
それは、言葉の否定だったと思う。
「神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。」(共同訳聖書)
という聖書の言葉にあるように、言葉は神であり、
神の言葉から地上の全てのものが作られた。
だから、未来の五感すべての体験を詩的言語で現実世界にもたらせば、
見者となり、錯乱の果てに未知に到達することができれば、
神のように、詩で現実の社会を変革することができる。
だが、見者の実践は、現実生活の挫折だけをもたらした。
その詳細なレポートを作成し、言葉の構築物を完成させ、放棄する。
ランボーは、ボードレールのように神に反抗しながら言葉と美を信じることも、
マラルメのように神を信じずに、言葉と美を信じることも、放棄してしまう。
「徹底的に現代的でなければならない。神を讃える歌はない。」
神の放棄は、言葉の放棄でなくてはならない。
言葉の放棄は、神の放棄でなくてはならない。
「ひとつの魂とひとつの肉体の中に真実を所有すること」が許されるだろう。
ランボーのモデルニテ(現代性)は、ここにあると思う。
イリュミナスィオンは、モデルニテの結果ではなく行程であり、
彼を取巻く万象を反射しながら収束した「版画集」と見える。

2006年6月29日 門司 邦雄

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ぼくが、今でもランボーを読んでいるのは、
彼の詩が映像へ戻る入口だったから。
写真家ダイアン・アーバスは、
被写体( object )を精密に観察すると、それはファンタスティックになる、
という意味のことを語っていた。
ランボーの詩の言葉ひとつひとつを裏返して、その対象物を探すことで、
他者が生きたその時を垣間見ることができるとしたら、
それは、不毛な思想を超えた、
共有可能なデータになるだろう。

Nothing is ever the same as they said it was.
It's what I've never seen before that I recognize.
- Dian Arbus, "Five Photographs by Dian Arbus", Art Forum, May 1971

注)
・ダイアン・アーバス(1923-1971)
 フリークスの写真で有名なアメリカの女性写真家
・1999年、ブリュネル編の全作品集、
 2000年、ジャンコラ編の作品集が発行されている

2003年10月 門司 邦雄

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