イリュミナスィオン

Doll Box : Mari Shimizu, Photo : Kunio Monji

Illuminations

Après le Déluge
「ノアの大洪水」の後

 「ノアの大洪水」が、また起るという予感が鎮まったとたん、
 臆病者の野ウサギは、イワオウギと揺れている釣鐘草の中で立ち止まり、クモの巣越しに、虹にお祈りをあげた。
 おお! 宝石たちは消えていく、―花たちが見守っていたのに。
 汚れた大通りには、屋台店が立ち並んだ。そして、版画で見るように、天まで段々と昇る海の彼方に、人々は小舟を曳いていった。
 血が流れた。「青ヒゲ」の家で、―屠殺場で、―円形闘技場で。そこの窓々は、神の印しに青ざめた。血と乳が流れた。
 働き者のビーバーがダムを作った。"マザグランコーヒー"がカフェ・バーで湯気を立てた。
 まだ水の滴るガラス張りの大きな建物の中で、喪服を着た子供たちが驚くべき奇蹟を描いた絵を見つめていた。
 戸がバタンと鳴って閉り、村の広場では、あられ混じりのとどろくように激しいにわか雨の中で、見渡すかぎりの風見や鐘つき塔の雄鶏も一緒になって、あの子が腕を振り回した。
 マダム *** がアルプスの山奥にピアノを据えた。ミサと初聖体の儀式が大聖堂のおびただしい祭壇で厳かにとりおこなわれた。
 キャラバン隊が出発した。そして「豪華ホテル」が、吹き荒れる氷と夜の極地の中に建てられた。
 そのとき以来、「月」はタイムの香る荒れ野の中で、ジャッカルが哀しく吠えるのを聞いた、 ― 木靴をはいた牧人たちが、果樹園の中でぶつぶつ呟くのも聞いた。それから、芽吹いたすみれ色の森の中で、ユーカリスがぼくに、春が来たと教えてくれた。
 ―池よ、溢れろ、―泡立て、橋も林も押し流せ、―黒い布と大オルガンよ、―稲光と雷鳴よ、―沸き出し渦巻け;―水と悲しみよ、溢れ出て、また「ノアの大洪水」を引き起こせ。
 なぜなら、大洪水が引いてからは、宝石は隠れたまま、花は開ききったままだ!―ああ、うんざりだ! これでは土の壷に火種を起こしている「女王」、あの「魔女」は、彼女は知っていて、ぼくたちは知らないことを、決して語ってくれないだろう。

フランス語テキスト
手書き原稿には、冒頭2語目の après がありません。

翻訳:門司 邦雄
掲載:2000年10月3日、2011年7月26日、2020年9月22日


ノアの大洪水と虹


 厳しく躾られた子供が窓の外の激しい雨を見つめながらノアの大洪水を思い浮かべています。ノアの大洪水のようなものすごい洪水が起きてすべてを流し去ってしまえば良いのにと。この詩のリアリティは、春と秋に大雨が降った時のムーズ川の氾濫や、シャルルヴィル郊外のアルデンヌの草原や森の雨上がりの情景など、ランボーが実際に見た体験からきていると思われます。「 le Déluge 」は特にノアの洪水を指すことが多いですが、France 2 ではマクロン大統領になってから、洪水は「 inondation 」と表記し、「 déluge 」は使われなくなりました。宗教が関係していると思われます。
 「予感」は、原文では「思想、考え idée 」となっていますが、ここでは続く情景と、この詩の最後に「また「ノアの大洪水」を引き起こせ」と、大洪水の再来を切望していることから、「予感」と訳しました。原詩を直訳すれば、「ノアの大洪水」の思想が再び座る(腰を落ち着ける)とすぐに」となります。

 ところが、ノアの大洪水が起こるかと思わせた激しい雨も止んでしまい、青空がのぞき、太陽が顔を出し、空には虹がかかります。野ウサギがまだ濡れている草原に出てきて立ち止まり、前足を上げています。それはお祈りをしているように見えます。野ウサギは臆病な小動物というイメージですが、今の日本ではそのイメージがあまりないので、あえて臆病者と付け加えました。イワオウギは原語では「サンホワン」という発音であり、サンは聖なるもののサン(セイント)と同じ音です。イワオウギの花は古い教会の燭台のように見えます。釣鐘草はもちろん教会の鐘です。イワオウギは以下のサイトを参照してください。
http://www.jplants.sakura.ne.jp/iwaougi.html

 そして平穏な生活を望む一般の人々のシンボルとなったこの野ウサギは水滴がビーズのように付いているクモの巣(フランス語では網)を透かして、虹にお祈りを上げます、「神様、大洪水になりませんでした。ありがとうございます。」と。虹はノアの大洪水の後に現れた神と地上の契約の印しです(注1)。そしてクモの巣は人間(地上)のネットワークを暗示しています。たとえばインターネットのWWWはワールド・ワイド・ウェッブ(クモの巣)です。ここではカトリックという地上のネットワークを象徴していると見ることもできるでしょう。さらに具体的には大聖堂正面にある巨大な円形のステンドグラス、バラ窓 rosace をイメージしています。水滴の付いたクモの巣が、太陽の光で自然のステンドグラスとなります。しかし、水滴で美しく輝いて見えたとしても蜘蛛の巣が獲物を捕り血を吸うための網というイメージがどこか感じられます。たとえば、革命までは領主制であったフランスの農村についてですが、領主に年貢を持ってきた農夫の絵の背景にはクモの巣が描かれ、「貴族は蜘蛛で農民はその巣にかかった蝿だ」と記されています。また、19世紀文学の中では、イエズス会の活動が「糸で巧みにな巣を張り、通りかかる小動物を餌食とする蜘蛛」に譬えられているそうです。
 クモの巣に付いたキラキラした水滴はやがて消えてしまいます。水滴を見つめるように頭を垂れていた花もやがて上を向いて開きます。この詩の終わりの開ききってしまった花とも対応していて、花が眼を見ひらいている、つまり花が開いてしまう、隠されていた秘密が明らかになり色褪せてしまうという意味も含まれているように取れます。

 ノアの大洪水の後には慎ましい人々の生活が新たに始まったとされますが、それよりすぐに、人々の日常が復活します。汚れた大通りは、洪水の汚泥が残る大通りとも読めますが、むしろ大雨で洗われた大通りが、人々の生活によりゴミや動物の糞で再び汚れたと読む方がこの詩に相応しいと思います。大通りでは市場がまた開かれます。市場に物資を運んできたり、運び出したりするのは鉄道ができるまでは水運に頼っていました。そして市場は水運の便の良いところのそばに作られました。市場では取引が行われ、増水した河には物資を積んだ船が曳かれて行きます。なお、この時代のヨーロッパの街路は馬車が主要交通機関であったことも含め、かなり不潔だったことが記されています。
 人々の生活とともに、人間の残虐な行為も復活します。肉屋の屋台には殺した動物が並べられます。屋台は、語源的には肉をさばいて売る台であり、やがて屋台全般、商品陳列台を意味するようになりました。「青ヒゲ」は妻をつぎつぎに殺した物語の主人公、円形闘技場とは「シルク」つまりサーカスですが、語源であるギリシャ・ローマの円形闘技場(コロセウム)を指していると思われます。ノアの大洪水の後、地に戻ったノアとその息子たちへの主の言葉、有名な「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。……(創世記、第9章)」のところに、「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。……人の血を流す者は、/人によって、血を流される。(4節~6節)」(『新改訳聖書』(1973年日本聖書刊行会)より)という言葉があります。神の言葉に背いて血を流しているところには、神の印し、契約の印しである虹が現れ、人々は神を恐れて青ざめたという意味でしょう。

 ビーバーはダムを造り、川の水をせき止めます。直訳すると、ビーバーは建てた、となります。ここでは、水をせき止める建造物としてダムと訳しました。ビーバーには働き者という意味があります。ボーヴォワールのソルボンヌ時代のあだなは「ビーバー(カストール)」でした。ガリ勉君といったところでしょうか。日本語ではイメージが取りにくいと思って働き者という説明を付け加えました。働き物のビーバーは、かなりの範囲にわたってダムを作り、時に決壊して、水害を引き起こすこともあるそうです。次の「マザグラン(コーヒー)」は、元はアルジェリアの地名で、1840年のここでの戦闘により伝えられたグラスに入れたコーヒーの名前になりました。一般的には、冷ましコーヒーを指すようですが、熱いものも、ブランデーを入れたものもあります。コーヒーの呼称としては、今ではあまり使われていないようです。また、マザグランコーヒーをいれる逆三角錐形の足つきのグラスもマザグランと呼びます。ネットで検索したら、グラスの販売の紹介が幾つもありました。当時の北フランスには、コーヒーに蒸留酒(オー・ド・ヴィー)を入れた飲み物があったことがステンメッツの伝記に書かれています(邦訳 P.130-131および訳注27)。ランボーは言葉のイメージで「マザグラン」を選んだと思われます。「マザグラン」は小文字で書かれた普通名詞ですが、大文字で書かれた固有名詞とすれば、「マザグランの人々」となり、「湯気を立てる」は「タバコをふかしている」とも読むことができます。ここで、ランボーは眼で読む言葉と耳で聞く言葉で意味が違ってくるという二重の意味を持たせて遊んだとも考えられます。カフェ・バーは原詩では estaminet で、(北フランス)のアルコール飲料も出す小さな大衆的なカフェのことです。ベンヤミンの『パサージュ論』には、19世紀中頃のパリのカフェに関する引用があります。「かつて、煙草は、下層階級の人々しか行かないエスタミネ(居酒屋)と呼ばれる特別の場所だけで吸われていたが、いまではいたるところで吸われている。」(注2)とあります。つまり、タバコを吹かす場所でもあったわけです。

 ヨーロッパの古い村の中央には広場があり、高い塔のある教会が建っていることが多いです。喪服を着た子供たちのいる、水のしたたるあの大きな建物(家)とは教会で、ガラスとはステンドグラスでしょう。その中で子供たちが「驚異の映像」、神の奇跡を描いた宗教画を見つめています。この建物は、産業革命の当時、ヨーロッパで建てられたガラスと鉄骨のモダンな建造物のイメージをダブらせたようにも思えます。
 突然、扉が閉まる音がして、教会から逃げ出したあの子は、村の中央にある教会の前の広場で風見たちと一緒になって雨と風を楽しんでいます。それはダダをこねているようにも見えます。少年ランボーの逃亡願望でしょう。
 少年の夢想は、村を取り巻く白銀をいただく山々にまで広がっていきます。だが、そこにも退屈な文化と宗教が押し寄せてきます。19世紀後半のヨーロッパ(とくにイギリス)では、すでにアルプス観光がご婦人方に人気でした。現在のフランスアルプスの高級リゾート地クルシュベルのスキー場には、立派な劇場があります。
 人々は未知の大陸にまで商取引に出かけていきます。そして、極地も観光旅行の対象となり、豪華絢爛なホテルが立てられます。なお、マダム *** は、ヴェルレーヌの義母と言われています。

 「タイム」は和名は「たちじゃこうそう」「百里香」で、地中海沿岸に自生する低木のハーブで、ブーケガルニなどに使われます。チモールが取れ、消毒作用があり、ギリシア・ローマ時代には全身の消毒に使われたといわれます。また、勇気を表す草とされます。ドラエーが「親しい思い出 Souvenirs familiers 」にランボーと散策したシャルルヴィル近郊にタイムが自生している場所があったことを書いています。この節は、アルデンヌの風景がアレンジされて描かれていると思われます。「ジャッカル」は狼とともに犬の祖先です。この部分は滅びてゆく野生の自然を擬人化して描いています。「ユーカリス Eucharis 」については、フェヌロン作の「テレマック」に出てくるニンフという解釈が一般的です。 フェヌロン(1651-1715フランス)は司教で文人。テレマックは、ギリシア神話の王、オデュッセウス子テレマコス。ユーカリスはオデュッセウスをオギュギア島に引き止めた海の精カリュプソの仲間です。P. ブリュネルは、ランボーがこの戯曲を知っていたのか疑問だとし、ギリシャの女神 la Grâce のことではないかと書いています。grâce は、フランス語では恩寵という意味になります。また、eucharistie にはカトリック用語で聖体という意味があり、英語の Eucharist は、元は教会ギリシア語からの教会ラテン語から来た、聖体、感謝の祈りという意味です。このニンフの名前には、大洪水が収まり、春が訪れたことに対する神への感謝が暗示されているのでしょう。

 ランボーはここで再び大洪水の到来を願います。原文では「池」となっていますが、たとえば大正池のような小さな山の湖をイメージしていると思われます。イリュミナスィオン中の「(フラーズ)」には、「高い池からは、絶え間なく霧が立ちのぼる。白い夕日を背に、どんな魔女が立ち上がるの? どんなスミレ色の若葉の林が降りてくるの?」という表現があります。次の「林( bois )」には、材木、植林などの意味もあるので、森( forêt )ではなく林と訳しました。自然の中の人工物を洪水が押し流していきます。「黒い布」は黒雲であるとともに、教会内の喪の布でもあります。「大オルガン」は雷鳴であるとともに巨大なパイプオルガンの音でもあります。次の「稲光」と「雷鳴」は前の2つのものの言い替えです(稲光はエクレールであり、派生語のお菓子のエクレアは黒雲の形をしています。光っているチョコレートから来たそうですが、私にはエクレアそのものが雷雲のように見えます)。
 大洪水のなくなった世界には退屈な日常しか残されていません。これでは、中世のキリスト教社会への反抗のシンボルであった魔女は、この退屈な社会を破壊する火種のことをぼくたちには教えてくれないでしょう。なお、この魔女のことを、ランボーの母親と取る説もあります。

 この詩には、短命に終わってしまったパリ・コミューンへの追憶があると思われます。プレイヤッド版(A. アダン編)の注によると、イブ・ドゥニ( Yves Denis )は、この詩全体をパリ・コミューンとその後の社会に関連付けて解読しています。
 革命を洪水と捉えることは、フランス革命(1789年)の時からあったと考えられます。コルドリエ・クラブで、カミーユ・デムーランは「理性のカによって専制主義が溺れるのがフランスだけだというのでは十分でない。地球全体が水浸しになり、あらゆる国の王座が基礎からくつがえされ、洪水の中に浮かぶようでなければならない……。スウェーデンから日本まで、それはなんというすばらしい光景であろうか!」(『物語 フランス革命』より引用、安達正勝著/中公新書/中央公論新社/2008年発行)

注1) ノアの大洪水と虹について
 旧約聖書、創世記、第9章9節から17節まで、ノアの大洪水後に現れた神と地上の契約のしるしである虹について書かれています。繰り返し書かれているので一部を抜粋します。
 「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。/わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。/わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。/わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水(おおみず)は、すべての内なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。…」(『新改訳聖書』(1973年日本聖書刊行会)より)
 つまり、野ウサギは、神の契約によって大洪水が起こらなかったことに感謝して、虹に祈りを捧げています。
 紀元前8000年頃のヴェルム氷期に地球は寒冷化し、その後、次第に温暖化していき、紀元前4000年頃の温暖化ピークを迎えたとされます。紀元前3500年頃、地球温暖化により海水面が上昇し、メソポタミア地方が大洪水となり、これが後に旧約聖書のノアの大洪水の話となったという説があります。

注2) 出典
パサージュ論』/ヴァルター・ベンヤミン著/今村仁司・三島憲一ほか訳/岩波現代文庫の第4巻7-8ページから引用。「パリのカフェの歴史 ― ある遊び人の回想からの抜粋」パリ、1857年、91-92ページと元々の出典が記されています。なお、引用した箇所の「いたるところで」は「パリのさまざまなカフェで」という意味でしょう。

解読:門司 邦雄
掲載:2000年10月3日、2003年7月10日、2008年8月24日、2011年7月26日、2020年9月22日

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