イリュミナスィオン
Dolls : Mahoko Akiyama, Photo : Kunio Monji
I
黄色の髪をなびかせた黒い目のこの偶像、両親も取巻きもなく、おとぎ話よりも気高いメキシコとフランドルの混血児;彼の領土は、船も通えぬ荒波を越えて、猛々しくギリシア、スラブ、ケルトの言葉で名付けられた浜辺まで果てしなく広がる青空と緑野。
森のはずれでは、夢の花々が鳴り、はじけ、輝く、―オレンジ色の唇の少女が草原に湧きだす澄んだ泉のなかで膝を組む。裸体を、虹と花と海が覆い、隠し、装う。
海に臨むテラスを巡り歩く貴婦人たち;緑青色の苔のなかの美しい黒人の娘たちと大きな女たち、雪解けの植込みや小庭園のぬかるんだ土の上に立つ宝石たち、―まなざしに巡礼が溢れる若い母親たちや姉たち、サルタンの妃たち、横暴な物腰と装いの王女たち、心ひそかに不幸せな異国の少女たちや女たち。
うんざりだ、"愛しい体"と"愛しい心"の時。
あの子だ、幼いうちに死んだ女の子だ、バラの茂みの後ろにいるのは。―若くして亡くなった母親が玄関の石段を降りる―従兄弟の四輪馬車が砂の上できしむ―弟は―(インドにいるのに!) あそこだ、夕日を背に、ナデシコの咲く野原に。埋葬された老人たちがニオイアラセイトウの咲き乱れる城砦の中にまっすぐに立っている。
黄金色の木の葉の群が将軍の家をとりまく。家の人達は南方に行っている。―赤い街道をたどると無人の宿屋に着く。館は売りに出されていて;鎧戸は外されている。―司祭は教会の鍵を持っていったようだ―庭園の周りでは、番人の小屋には人がいない。塀が高いのでざわめく梢しか見えない。もっとも、中には見るべきのものもないのだが。
草原を登っていくと雄鶏も鳴かず、鉄床も鳴らない部落へ。水門は開けてある。おお、十字架の立ち並ぶ丘と荒野に幾つもの風車、島々と干草の山々。
魔法の花々がざわめいていた。斜面が「彼」をやさしく揺すっていた。おとぎ話のように優雅な動物たちが歩きまわっていた。永遠の熱い涙でできた沖合には雲がわきあがっていた。
Doll Box : Mari Shimizu, Photo : Kunio Monji
林には一羽の鳥がいて、その歌は君たちの足を止め、君たちは顔を赤らめる。
時を打たない時計がある。
白い獣たちの巣のある窪地がある。
降りる大聖堂と昇る湖がある。
雑木林の中に捨てられた小さな車がある、かと思えばリボンをつけて小径を駆け降りる。
衣装を着けた小人の役者たちの一座がいる、林の外れを横切る道にちらりと見える。
おしまいに、おなかがすいて喉が渇いたときに、君たちを追い立てる誰かがいる。
ぼくは高台で祈る聖者だ、―おとなしい獣たちがパレスチナの海まで草を食べて行くように。
ぼくは陰気な肘掛け椅子に座った学者だ。木の枝と雨が書斎の十字窓に打ちつける。
ぼくは小人の林を抜けていく大道の歩行者だ;水門のざわめきがぼくの足音をかき消す。ぼくは長いこと夕日のもの寂しい黄金色の泡立ちを見ている。
ぼくは本当は沖合に延びた堤防に捨てられた子供かもしれない。天にまでとどく小道をたどる小僧かもしれない。
道は険しい。丘にはエニシダが生い茂っている。風はそよともしない。鳥も泉もなんて遠いのだ! 進んで行っても、たぶんこの世の果てでしかないだろう。
最後にはセメントの筋が浮き出た石灰で白く固めたこの墓を貸してはくれないか―地下奥深くに。
おれはテーブルに肘をつく、ランプはおれが阿呆のように読み返している新聞やおもしろくもない本を明々と照らしている。
おれの地下室のはるか上には、家々が根をおろし、霧が立ちこめている。泥は赤か黒。化物じみた町、終わりのない夜!
そんなに高くない所に下水がある。周りは地球の厚みだけだ。青空の深淵や火の井戸もあるだろう。月と彗星が、海と寓話が出会うのもたぶんこの平面上だろう。
苦い思いをかみしめている時、おれは自分をサファイアの玉、金属の玉と思い描く。おれは沈黙の主人だ。丸天井の片隅で換気窓のように見えるものが青く白むのはなぜか?
フランス語テキスト
翻訳:門司 邦雄
掲載:2000年11月、2003年6月、2007年11月、2020年9月27日
おとぎ話
「少年時代」、あるいは「少年の日」などと訳されているこの詩は、実際には比較的幼い第1部から第4部までと、ランボーがロンドンに渡った青年時代の第5部で構成されています。奇妙なことですが中間のいわゆる少年時代、ランボーが詩人になろうと修行した時代から後期韻文詩編を書いた時期までは、「少年時代」には表現されていません。
・第1部は、絵画や物語からのイメージと取れます。
「偶像」は、英語読みをすれば、アイドルとなります。ランボーは『地獄での一季節(地獄の季節)』の中で「偶像崇拝と涜聖愛」をゴール人の先祖から受け継いだと書いています。ランボーの生きた時期とフランスのビスクドールの盛んだった時期はほぼ重なります。ランボーが詩を書いた時期はビスクドール全盛期の前半にあたります。また、このころからフランスは先進国で最初の出生率低下を経験しています。黄色のトウモロコシのヒゲのような頭髪をし、青い目あるいは茶色の目の、王子風の衣装の男の子のビスクドールを何体か見ました。サン・テクジュペリの「星の王子様 Le Petit Prince 」の挿絵を連想させます。濃い茶色の目は、遠目には黒い目に見えました。ビスクドールは確かに豊かな家庭の子供の玩具、人形であり、必ずしも偶像とは言えませんが、この現象は私には社会が豊かになると少子化が起こるということの他に、人形は宗教(カトリック)の力の衰退を感じさせます。
「黄色い髪」は、原文では「黄色いたてがみ」という言葉を使っています。この髪の色と黒い眼の色の組み合わせは、遺伝的に成立しにくいものです。おとぎ話しの主人公であるこの少年の世界は、ヨーロッパの辺境に広がっています。
次の節は、やはりおとぎ話しの中の少女です。天と地の契約のしるしとされる虹、そして花(原語では植物群、草花の意味)や海に包まれ守られた少女は、大人の世界を拒否して泉のなかに膝を組んでいます。
続く第3節は、これも物語的なイメージで王宮などの女たちです。権力に囲われたり、神に仕えたりしている彼女達。しかし、自由はなく物憂げに生きるしかない女性です。
最後の節の「うんざりだ…」は、ランボーが第3節の女達に興味のないここと、第1部の世界に飽きたことの両方を表しているように思えます。"愛しい体"と"愛しい心"は、原文では会話や引用を表す " " で括られています。ボードレールの詩、あるいはヴェルレーヌの詩からの引用という解釈があります。なお、「いとしい cher 」には、もうひとつの「貴重な、高価な」という意味が含まれているのかも知れません。高価なビスクドール、王侯貴族の女達という少年ランボーから遠く離れた退屈な世界という意味かも知れません。
・第2部は、ランボー自身の少年時代の回想と思われます。
第1節は、ランボーが乳飲み子で死んだ妹のイメージをきっかけに死を媒介とした空想上の家族を描いたと思えます。バラの茂みをはじめとして植物が登場します。原語では花か植物そのものかは分かりません。しかし、この亡霊達は咲き狂う花や香りとともに地上に姿を見せたように思えます。死んだ妹も、あの世で生きていてあどけない少女の姿で赤いバラの花の咲く茂みの中で遊んでいるように見えます。現実の厳しい母ではなく、やさしい母は若くして亡くなったままの姿をしています。ランボーの母親は、厳しい教育ママになる前は育児にもそれなりに熱心な母親で、たまにしか帰らない夫を心待ちにしていたのでしょう:「玄関の石段を降りる」。でも夫に捨てられ、厳しく頑なな母に変わってしまいます。ランボーには兄はいますが、弟はいません。インドに行ってしまったのでしょう。空想は、中庭から郊外の砦へと広がっていきます。無人の宿屋 auberge vide は、ピリオドがそれぞれに付けられて「無人の」が後で追加されたように見えます。ニオイアラセイトウの英名 wallflower で、古い城壁(土の壁)に良く見られたことから来る名前だそうです。日本語では十字花科の植物で、フランス語では十字架科 crucifieres です。磔刑を表し、花が真っ直ぐに立ったままと取れます。以下のサイトをご参照ください。
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/nioi-araseitou.html
http://www.aujardin.info/plantes/giroflee.php
第2節の将軍は、軍人でほとんど家に帰らなかった父の記憶からのイメージでしょうか。友人のドラエーはノアゼ将軍の家と特定しています。ざわめく木立にかこまれた無人の家や館、庭園が次々に現れます。子供だったランボーには塀などが高すぎたのでしょう。子供の無人の家に対する恐怖感の記憶とみることができます。実際にシャルルヴィルがフランスの北東部でドイツに近かったため、ドイツ(プロイセン)との戦争により無人となった村、あるいは疎開になった村の記憶とも思えます。
第3節は第2節に続く、となり村の風景と考えられます。ここも無人の村です。十字架は風車の、島々は干草の山々のイメージ的表現です。C. ジャンコラの伝記には、ランボーが生まれて間もなく、母ヴィタリーは家を切り盛りしなければならなかったため、彼をシャルルヴィル近郊の釘工場のある村に預けたと書いてあります。子供を乳母に育てさせることは、当時のブルジョワ家庭でも珍しいことではなかったようです。「鉄床も鳴らぬ部落」には、残るはずもない消えた幼年期の記憶を見たくなります。
第4節は、花の咲き乱れ、動物達の遊ぶ無人の草原の斜面に寝そべり空を見上げる「彼」が登場します。彼(ランボー)の眼に一杯に溜まった熱い涙の永遠の海の彼方には、雲が沸き起こっています。それは、自然に抱かれた少年の無垢の至福の時と、その終わりを告げています。
・第3部は、少年時代の近くの林での体験の回想です。
第1部の少女のいる森 la forêt とはことなり le bois なので、植林(林)と考えられます。林そのものだけではなく、もっと広がりを持った雑木林などの点在する農村丘陵地帯と考えてください。途中の雑木林というのもこの林の一部です。
少年は、第2部より少し成長しました。しかし、まだ自我意識が発達してはいません。林はおとぎ話の世界でもあります。林に遊びに行ったのが、ひとりでなのか幼ななじみの女の子となのか、あるいは、ヘンデルとグレーテルのような兄妹なのか、分かりません。フランス語では親しい2人称(単数)は tu なのですが、ここでは、あなた、あなたがたと訳される2人称(複数、丁寧な呼び方として単数) vous を使っていますので、二人(以上)とも一人とも、どちらの解釈も可能です。18世紀のフランス貴族は、目上の者は親しげに「テュ(おまえ、君)」と言い、目下の者はかしこまって「ヴゥ(あなた)」と答える言葉遣いをしたそうです (『フランスの歴史』/ロジャー・プライス著/河野肇訳/創土社)。目下の子供たちというイメージがふくまれているのかも知れません。少年(少女?)の心の中にはエロス、恥じらいの感情が芽生えています。鳥の突然の声にびっくりして、人に見られたような気持ちになり、顔を赤らめます。
少年は森の中で不思議なものをいくつも見つけます。すでにエロスの世界に入っています。白い獣、玩具の動かない車(馬車)、リボンをつけた車(捨てられた乳母車が何かの拍子に動き出すとか)、つまり色彩の白・馬車・リボン・乳母車です。同時にロジックの世界にも入っています。時を打たない時計、動的にとらえられたカテドラルと湖は、丘に登りながら見た光景なのでしょう。もちろん湖には『イリュミナスィオン』中の「「ノアの大洪水」の後」や「フラーズ」に現れる「池」のように、少年の悲しみと反抗の意味も含まれているように思えます。
林のはずれは大人の作った子供の世界(小人の役者)に繋がっています。そして最終段に来て、おとぎ話のように林の中を食べ物も持たずにさまよっていた少年・少女は大人に追い出されてしまいます。ランボーは幼いころ、シャルルヴィルのアパルトマンで近所の子供たち、女の子たちと遊びました。母親は喜ばなかったようですが(「七歳の詩人たち」)。この誰か( quelqu'un )には、そういう子供ならのぼかした表現かもしれません。
・第4部は、少年時代の自我のイメージの世界です。 第3部よりも成長して自分の世界を語ります。たぶん、こうした「自分ごっこ」、ひとり遊びをした記憶を持っている人も多いと思います。
「おとなしい獣たち」の「おとなしい」は Pacifiques であり、太平洋( l'océan Pacifique )と意味をかけて、パレスチナの海を連想しています。
「夕日の黄金色の泡立ち」の「泡立ち」は lessive という言葉が使ってあり、本来は灰汁、そして洗濯という意味です。この光景が空の夕日なのか、水面の反映なのか特定できませんが、水門の情景に続くことから(水面の)「泡立ち」と訳しました。ランボーは、水面の反射・反映を「谷間に眠る人」「思い出」「酔っぱらった船(酔いどれ船)」などで描いています。霧のアルデンヌの空も川も金色に染まった夕景かも知れません。
ひとり遊びの少年は、空想の世界からだんだん実際の自我の世界に目覚めてしまいます。聖者、学者、歩行者、捨て子、小僧になってしまい、もう少年時代の幸福には戻ることができません。この世の果ては、少年の行動半径の外であるとともに、少年時代の果てでもあるのでしょう。
エニシダは以下のサイトをご参照ください。
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/enisida.html
https://garden-vision.net/tree/a_line/cytisus.html
・第5部は、青年ランボーがこの詩を書いているロンドンの地下室です。詩人が少年時代の果てに望むのは、白い墓場です。
ランボーはヴェルレーヌとイギリスに渡り、ロンドンで生活をします。ここは、地下室のカフェバーでしょうか。読み返しているのは良く分からない英語の新聞や本でしょうか。地下室のはるか上には、夜の無いロンドンの町。その下にはドブや下水があります。「そんなに高くない moins haut 」は、より高くない(=低い)という劣等比較級ですが、基準となるものが示されていません。地下室の周りは「地球の厚み」、地下の闇が広がっています。地球の中心部には「火の井戸」、つまりマグマがあります。今では、唯一夢想の許されるこの地下深い世界の中で、少年時代の空想の世界のように月と彗星、海とおとぎ話とが出会えるかも知れない。いや、少年時代の果ては苦い現実の大人の世界に繋がるしかない。今や少年時代は語ることのできない沈黙の世界として埋葬されなくてはなりません。
やがて夜が明ける。夜明けの青い光が換気口から偲びこんできて、夢想の世界を消し去ってしまう。この蒼白い光を神の眼と解釈する人もいます。
解読:門司 邦雄
掲載:2000年11月、2003年6月、2003年7月、2007年11月、2008年9月、2020年9月27日
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