手 紙

Lettres

Lettres de Voyant
見える者の手紙 (見者の手紙)

 ランボーの「見える者の手紙(見者の手紙)」は2通あり、1通は1871年5月13日のかっての教師、イザンバールに宛てたもの、もう1通は15日の若手の詩人、ポール・ドムニーに宛てたものです。
 基本的には、どちらの手紙にも「見者」の詩法が展開されていますが、前者より後者の方が、よりプロパガンダ的・マニフェスト的になっています。
 「見える者(見者) voyant 」は、本来は未来を予見する者、予言者、透視者、そして占い師といった意味です。詩人は見者であるというコンセプトはランボーが初めてではありませんが、ランボーが「見者の手紙」で使用してから、「未知のものを見る詩人」という意味の言葉として認識され定着しました。ここでも「見える者(見者)」と訳しておきます。『地獄での一季節(地獄の季節)』の「別れ」の中で自分のことを「 mage ou ange (天使)」と述べている言葉があります。ヴィクトル・ユゴーの詩のタイトル「 Mages 」は、「予言者たち」と訳されることもあります。ですから、この「見える者(見者)」は「予言者的詩人」という意味と捉えることができます。


イザンバール宛の手紙 (全文)


         シャルルヴィル 1871年5月(13日)
 先生!
 教職に戻られたのですね。人は社会に尽くす義務がある、とあなたはぼくに言われました。教員になられたということは、善きレールに乗っかっているということです。―ぼくだって、ぼく自身が原理なのです。ぼくはハレンチに食わせてもらってます。学生時代の馬鹿どもを見つけ出しては、思いつく限りの、愚かなこと、淫らなこと、悪いことを、行動でも言葉でも、奴らに提供しては、ビールと女の子(訳注1i)をおごってもらっています。人の子十字架にかかり給うとき、聖母は悲しみ立てり。(訳注2i)―ぼくも社会に尽くすべきだ、というのはもっともです、―ぼくは間違っていません。 ―今の所は、あなたも間違っていません。結局、あなたは、自分の原則として、主観的な詩しか考えていません。大学の教壇への執着からも―失礼ながら!―それが分ります! でも、あなたは、いつも何もしようとしないから何もできなかった自己満足の人として終わるでしょう。あなたの主観的な詩がいつでもひどく退屈だろうということを別にしても。いつか、ぼくも、―他の多くの人たちも、同じ事を望むでしょう。―ぼくはあなたの原則の中に客観的な詩が見たいのです。あなたが客観的な詩を見ようとしないよりも、ぼくはより真剣に見ようとしているのです! ―ぼくは労働者になります。でも、押さえ切れない怒りがぼくをパリの戦闘(訳注3i)に追い立てている時なのに、あの考えがぼくを引きとめています。―ぼくがあなたに書いている間にもパリでは多くの労働者が死んでいます! 今すぐに労働者になることは、絶対にいやです。ぼくはストライキ中です。
 今、ぼくはできる限りワル(訳注4i)にしているんです。なぜですって? ぼくは詩人になりたいからです。ぼくは「見える者(見者)」になろうと修行中です。あなたにはさっぱり解からないでしょう。ぼくにもほとんど説明できません。「あらゆる感覚」の錯乱により未知に到達することです。非常な苦痛です。強くなければならないし、生まれつきの詩人でなければなりません。ぼくは自分が詩人だと分かったのです。これは全くぼくのせいではないのです。「ぼくが考える」というのは間違っています。「ぼくは考えられる」(訳注5i)と言うべきです。―言葉の遊びですみません。―
 ぼくというのは他の人です。木材が自分をヴァイオリンと思っても仕方ありません。まったく知らないことに難癖をつける奴は馬鹿です!
 あなたはぼくの「教師」ではありません。この詩を送ります。あなたはこの詩を風刺詩と読むでしょうね? これは、詩でしょうか? これは、いつもの空想です。―でも、お願いですから、エンピツでアンダーラインを引いたり、余計な考えを押しつけたりしないでください。

フランス語テキスト

      処刑された心臓 (訳注6i)

ぼくの悲しい心臓が、船尾でよだれをたらす…
兵隊タバコ(訳注7i)でいっぱいの心臓!
奴らは、そこにスープをひっかける、(訳注8i)
ぼくの悲しい心臓が、船尾でよだれをたらす…
いっせいにあざ笑う
奴らの冷やかしで。
ぼくの悲しい心臓が、船尾でよだれをたらす…
兵隊タバコでいっぱいの心臓!

勃起させた、新兵いじめの(訳注9i)
奴らの冒涜に、心臓は堕落、
勃起させた、新兵いじめの
落書きを、夕方になれば(訳注10i)描きつける、
おお、アブラカダブラ三角波よ、(訳注11i)
ぼくの心臓をつかまえてくれ、救ってくれ!
勃起させた、新兵いじめの
奴らの冒涜に、心臓は堕落!

奴らが嗅ぎタバコを切らしたら
おお、盗まれた心臓よ、どうしよう?
奴らが嗅ぎタバコを切らしたときには
飲んべえの歌になるだろう!
ぼくの悲しい心臓が飲み込まれたら
ぼくの胃袋は、ひどくびっくりするだろう!
奴らが嗅ぎタバコを切らしたら
おお、盗まれた心臓よ、どうしよう?

 これは何の意味もありません。―ご返事ください。デヴリェール様方、A.R.宛。
     それでは、よろしく。
アル・ランボー



訳注1i) 原文は filles (複数)で、娘、女の子の意味です。ただし、派生語の fillette 少女に、俗語としてワインの小ビンという意味があります。また、アルデンヌの方言として fille でワインの小ビンという説もあります。もちろん、実際に女の子を世話してもらうという意味に取ることも可能です。ただ、いたずらの対価としては高すぎるかな、紹介くらいでは、という気もします。お上品な先生(イザンバール)には分からないだろうと、からかってみたとも考えられます。なお、ビールは bocks (複数)で、小ジョッキの意味です。
訳注2i) (カトリック)典礼からの引用で、ランボーの母が、息子が悪い道に進むのを見て悲嘆にくれているという意味とされます。
訳注3i) パリ・コミューンのこと。1871年3月18日から5月28日までの72日間、パリに成立した世界最初の労働者階級の革命政権と言われます。実際は、小市民、文化人、印刷工等の労働者など、パリ市民の集まりで思想的にも組織的にも統一されていなかったと言われます。ランボーがこの手紙を書いているときは、政府軍(ヴェルサイユ軍)の弾圧によりコミューンが壊滅する「血の一週間」のすぐ前です。
訳注4i) 原文 s'enclapule は、ランボーの造語で se en + clapule 自分を下劣にするという意味です。
訳注5i) これは有名なデカルトの「方法序説」からのもじりです。「 Je pense, donc je suis. 我思う、故に我あり」ですが、「思う」より「考える」の方が訳としては妥当でしょう。デカルトは、ここで考える主体としての人間の存在を真理と宣言しています。ランボーは、この「 Je pense ぼくが考える」を「 On me pense ぼくは考えられる」に言い替えています。直訳すれば、「人 on 、私を me 考える pense」となります。on は、漠然と人間一般を指す、私たちを漠然と指す、行為者を明示しない場合などに使われます。ランボーはここで、近代思想の意識ある自我という考えに対する反論を提示しています。意識的自我も錯覚であり、したがって主観的詩から、客観的な詩になるだろうという論理が展開されています。錯乱により主観的自我を超えて未知に到達するという、いわゆる「見える者(見者)」の詩法は15日のドムニーへの手紙に、より詳しく書かれます。
訳注6i) この詩は、他にヴァリエーションが2つあります。6月にドムニーに送られた「道化者の心臓」、ヴェルレーヌが書き写した「盗まれた心臓」です。詩の内容は、兵舎の中での体験を(軍隊の)船の中での体験に置き換えたものです。この船の比喩は、後に書かれた「酔っぱらった船(酔いどれ船)」や後期韻文詩編の「思い出」にも使われています。
 実際に、ランボーがパリ・コミューンにシャルルヴィルから徒歩で参加し、その兵舎に宿泊したかどうかは、確かな資料がありません。しかし、この詩では、詩人の心が「奴ら」のリアルな嘲笑や欲望の前には無力であることが描かれています。そして、この詩をイザンバールに送るということ自体が、「主観的な詩」の敗北の象徴としてだと思われます。
 この詩のテーマに関してはさまざまな解釈がなされてきましたが、私は兵舎での同性愛体験、あるいは同性愛を強要された体験ではないかと思います。どこまでが実際のランボーの体験であったかは分かりません。しかし、直ぐ後に出されたドムニー宛の「見える者の手紙(見者の手紙)」には、パロディの形を取りながらも少女への嫌悪感をモチーフにした「ぼくの小さな恋人たち」と、自慰行為の性的夢想をモチーフにしたと考えられる「座っている奴ら」が掲載されていることも考え、この詩がランボーの性の転換点を示すと思われます。見者の覚醒とともに、夢想と欲情に溢れた初期詩編は変質したと思われます。
訳注7i) 原語 caporal は、兵隊の伍長の意味であり、(並みの品質の)フランス製刻みタバコの名称でもあります。
(訳注8i) 原文は lancent des jets de soupe です。「反吐を吐く」などと翻訳されていますが、lancer des jets でそういう意味を持つのか確かめられませんでした。文字通りに直訳した場合、ス-プの jets ( jet の複数)を投げる( lancer )という意味です。lancer は動詞ですが元の名詞の lance は鑓(やり)と言う意味でノズルという意味もあります。jet の方も投げること、噴出、あるいはノズルという意味もあります。意味を繰り返しているのは、韻文詩なので音の関係もあると思われます。なお、英語から来た言葉ですが、ジェットエンジンのジェットも同じ jet です。ですから、この文章は、スープを投げ捨てているあるいは吐き捨てているシーンにもとれるように、第1行に合わせてランボーが書いたものと思われます。日本語の訳としては意味が限定されてしまうと考え、動作を主体とした「ひっかける」という訳にしました。隠語的に、射精のことを暗示しています。
訳注9i) 原文は ithyphalliques et pioupiesques で、ithyphallique は古代ギリシアでディオニュソス祭りの行列に使われた勃起男根像の、という意味です。pioupiesque は pioupiou で若い兵士、兵卒、歩兵の意味なので、兵士のという意味だと思います。辞書には見つからなかったので、ランボーが前の言葉に合わせて造語したものかも知れません。私は、新兵、下級の兵隊に対するいじめ、暴行の意味ではないかと考えて、「新兵いじめの」と意訳しました。
訳注10i) 「盗まれた心臓」では、(船の)舵に替わっています。
訳注11i) 原語 abracadabrantesque で、病気除けの呪文アブラカダブラから来た言葉で、文字を三角形に書くことが多いとされます。形容詞 abracadabrant は、へんちくりんという意味で使われます。重たい詩の中で、ランボーがふざけて使った言葉だと思われます。


ドムニー宛の手紙


(中心となる詩論の部分の翻訳です。前後の挨拶にあたる文章と、引用されたランボーの3篇の詩は省略しました。)

        シャルルヴィル 1871年5月15日
……
 詩 「パリ市民の戦いの歌」 挿入

 それでは、詩の未来についての文章です。
 すべての古代詩はギリシア詩、つまり調和ある生活に帰結します。ギリシアからロマン主義運動まで、すなわち中世には、作家や作詞家がいました。エンニウス(訳注1d)からテロルデュス(訳注2d)まで、テロルデュスからカジミール・ドラヴィニュ(訳注3d)までは、すべて韻を踏んだ散文で、単なる遊びであり、無数の愚かな世代の栄光と衰退です。たとえば、ラシーヌ(訳注4d)はもっとも純粋で、力強く、偉大です。しかし、彼の脚韻を吹き消してしまい、句切りを乱してしまえば、この「神聖なる阿呆」は、どの「原作者」とも同じように、今日では無視されてしまうでしょう。そして、ラシーヌ以降は、遊びにカビが生えました。それが2000年も続いたのです。
 冗談でも逆説でもありません。「若きフランス(訳注5d)」もかって抱かなかったほどの怒りで、理性がぼくにこのことを確信させたのです。それに、先人を嫌悪するのは「新人」の勝手です。時間もありますし、気ままにやります。
 ロマン主義(訳注6d)は、まだ正しく評価されていません。だれが評価できるでしょう? 批評家でしょうか! ロマン主義者はシャンソンが作品に、つまり歌い手により理解され歌われた思想にほとんどならないことを証明しています。
 というのは、「ぼく」とは他の人だからです。銅が目覚めてラッパになっても、銅のせいではありません。このことはぼくには明白です。ぼくは自分の思想の開花に臨んでいます。ぼくは、それを見つめ、それを聞きます。ぼくが弓をひと弾きすれば、シンフォニーは深淵の中で鳴り出し、あるいは一気に舞台に現れます。
 もしも、昔からの愚か者たちが「自我」についての誤った意義しか見出せなかったとしても、はるか昔から自分は作家だと叫びながら偏った知性の産物をかき集めてきた何百万もの骸骨を、我々が一掃することもないのです!
 ギリシア時代は、すでに言いましたが、詩と竪琴が「行動にリズム(訳注7d)を与えて」います。それ以後は、音楽も韻律も遊びとなり、気晴らしでした。ギリシア時代の研究はマニアたちには魅力です。一部の人たちは、この古代文明をよみがえらせて喜んでいます。―それは彼らにはおあつらえ向きです。もちろん、宇宙の英知は、いつも思想を投げかけてきました。人々はこの頭脳の果実の一部を集めました。人々はそれにより行動し、それを本に書きました。人類は自ら努力せずに、未だに目覚めずというか、大いなる夢想のただ中にいるため、このようになっていました。役人や文章家は存在しても、作家、創作者、詩人という人間は今まで全く存在しませんでした!
 詩人になろうとする人間の最初の習練は、自分自身の完全な認識です。自分の魂を探求し、観察し、試み、学びます。自分の魂を把握したら、これを育てなくてはなりません。すべての頭脳には自然の成長が起こるので、このことは簡単に思えます。とても多くの「エゴイスト」が、作家を自称しています。知的進歩を自分の力と思い込んでいるエゴイストもたくさんいます! ―そうではなくて、怪物のような魂を作ることなのです。つまり、コンプラキコス(訳注8d)のように! 顔に醜いイボを移植し育てている男を想像してください!
 「見える者(見者)」でなければならない、「見える者(見者)」にならなければならないのです。
 この「詩人」は、「あらゆる感覚」の、長く、無制限な、論理的「錯乱」によって「見える者(見者)」となります。愛と苦痛と狂気のすべての形式です。自らを探求し、精髄だけを残すために、自らの中にあらゆる毒を汲みつくします。あらゆる信念と、あらゆる超人的な力が必要とされる、えも言われぬ拷問であり、そこで彼は、あらゆる人々の中で最も偉大な病人に、最も偉大な罪人に、最も偉大な呪われ人に、―そして至高の「賢者」となります! なぜなら、彼は「未知」に到達するからです! 彼はすでに豊かな自分の魂を誰よりも鍛錬したからです! 彼が未知に到達して、狂乱して自分の見た幻影の理解力を失ったときに、彼は本当にそれを見たのです! 数え切れない前代未聞のものの中での躍動で、彼が死ぬほど疲れ切ればよいのです。他の恐るべき働き手たち(訳注9d)がやって来ます。他の者の倒れた地平から、彼らは始めるでしょう。


 詩 「ぼくのかわいい恋人たち」 挿入


 したがって、詩人は真に火を盗む者です。
 彼は人類に、動物さえにも責任があります。彼は自分の発明を感じさせ、触れさせ、聞かせなければなりません。「彼方」から持ち帰ったものに、形があれば形を与え、形が定かでなければ、定かでない形を与えます。言葉を見つけることです。
 ―そもそも、すべての言葉は思想ですから、世界言語の時代が来るでしょう! どんな言語にせよ、辞書を完成するには、―化石よりもさらに枯れ果てた、―学者(訳注10d)でなければなりません。もっと頭の弱い人は、アルファベットの最初の文字を「考え」始めただけで錯乱してしまうかも知れません。
 この言語は、香り、音、色というすべてを要約した、魂から魂への、思想を引きつけ引き出す思想の言語となります。詩人は、彼の時代に、宇宙の魂の中に目覚めている未知のものの量を定義するでしょう。つまり、彼は―彼の思想の形以上のもの、「彼の「進歩」の歩み」の評価以上のものを与えるでしょう。すべての人に受け入れられれば、規範を外れたものも規範となり、詩人は真に「進歩の乗数」となるでしょう。
 あなたも想像するように、こうした未来は唯物的になるでしょう。―詩は、いつも「数」と「調和」に満ちて、残るために作られるでしょう。―実は、これはまだ幾分ギリシア「詩」でしょう。詩人が市民であるように、永遠の芸術はその役目を持つでしょう。「詩」は、もはや行動にリズムを与えるのではなく、「先駆するでしょう」。
 こういう詩人たちが現れます! 女性の果てしない奴隷状態が打ち砕かれたときには、今までは憎悪の対象であった男性が―女性を解放すれば、女性が自らのために自らの力で生きるようになり、女性もまた、詩人となるでしょう。女性も未知を発見するでしょう! 女性の思想の世界は、我々男性と異なるでしょうか? ―女性は、不可思議なもの、計り知れないもの、気持ちの悪いもの、心地よいものを見出します。我々はそれを手にし、理解します。
 それまでは、「詩人」には「新しいもの」―思想と形式を要求しましょう。器用な人たちはみんな、この要求を満足させたと信じるかも知れません。―そうではないのです!
 初期のロマン主義者は「見える者(見者)」のことが良く分からないのに、「見える者(見者)」でした。彼らの魂の鍛錬は、偶然に始まりました。見捨てられたが、火がまだ燃えている蒸気機関車がしばらく走るようなものです。―ラマルチーヌ(訳注11d)はときおり「見える者(見者)」ですが、古い形式に絞め殺されています。―ユゴー(訳注12d)は、とても頑固ですが、最近の作品には「見れる」ものがたくさんあります。「レ・ミゼラブル」は、真の詩です。ぼくは「懲罰詩集」を持っています。「ステラ」は、ユゴーの洞察力の概観を示しています。ベルモンテ(訳注13d)、ラムネー(訳注14d)、エホヴァの神、神殿の円柱など今では廃れたものが多すぎます。
 ミュッセ(訳注15d)は、我々、幻想を重視する苦悩の世代にとって、14倍も憎むべき存在です。彼の天使ぶった怠惰に侮蔑されて来たのです! おお! 色あせたコントと諺劇! おお、あの夜の詩編! おお、「ロラ」、おお、「ナムナ」、おお「杯」! すべての作品がフランス風、いわば、この上なく嫌悪すべき作品です。フランス風だが、パリ風ではありません! ラブレー(訳注16d)、ヴォルテール(訳注17d)、ジャン・ラ・フォンテーヌ(訳注18d)に着想を得、テーヌ(訳注19d)に解説されたあの忌まわしい精髄の作品でもあります! ミュッセの精神は、春うらら! ミュッセの恋愛は、甘ったるい! それこそ、七宝焼きの絵であり、長持ちする詩です! 「フランス風の」詩はこれからもずっと賞讃されるでしょう、ただし、フランスならではのことですが。食料品店のボーイはだれでもロラ風呼びかけ方をサラリと言えるし(訳注20d)、神学生なら、だれでも手帳に500行の詩を隠しています。15歳になれば、この恋の情熱が若者を発情させ、16歳になれば、もう「熱心」に暗唱しては自己満足し、18歳、いや17歳でも、中等学校の生徒で、ちょっと才能があればだれでもロラを気取り、ロラのような詩を書きます! そのため死んでしまうような者も、今でも何人もいるでしょう。ミュッセは何も創れませんでした。レースのカーテンの後ろに幻影がありましたが、彼は目を閉じてしまいました。意気地なし(訳注21d)のフランス人は、居酒屋から学校の机へと引きずりまわされ、死んだも同然の色男は、ついに死にました。これから我々は、嫌悪により彼を呼びさます労さえも取りません。
 第二期のロマン派作家(訳注22d)は、とても「見える者(見者)」です。テォフィル・ゴ―チェ(訳注23d)、ルコント・ド・リール(訳注24d)、テオドル・ド・バンヴィル(訳注25d)です。しかし、見えないものを見、聞いたことのないものを聞くことは、静物(訳注26d)の精神を理解することとは別ですから、ボードレール(訳注27d)こそ最初の見者であり、詩人の王であり、「真の神」であります。とはいえ、彼はあまりに芸術的な環境で生きてきました。あれほど賞讃される彼の形式も陳腐なものです。未知の発明には新しい形式が必要です。
  (訳注28d)幼稚な連中の中では、古い形式に囚われた A. ルノーは―彼なりのロラを書き、―L. グランデも―彼なりのロラを書きました。―好色な連中(訳注29d)やミュッセ気取りの連中には、G. ラフネストル、コラン、Cl. ポプラン、スラリー、L. サルがいます。小学生レベルの連中は、マルク、エカール、テュリエです。死人と馬鹿は、オトラン、バルビエ、L. ピシャ、ルモワン、デシャン兄弟、デゼッサール兄弟。ジャーナリストレベルは、L. クラデル、ロベール・リュザルシュ、X. ド・リカールです。幻想家は、C. マンデス(訳注30d)。ボヘミアン、女流作家、才能のある人は、レオン・ディエルクス、スュリ・プリュドム(訳注31d)、コペ(訳注32d)です。―高踏派(訳注33d)と呼ばれる新しい流派には二人の「 見える者(見者)」がいます。アルベール・メラ(訳注34d)と、真の詩人のポール・ヴェルレーヌ(訳注35d)です。―以上です。―というわけで、ぼくは「見える者」になろうと修行中です。…

 詩 「しゃがみ込んで」 挿入
 … (この後、「8日以内にパリに行くかも知れません」でこの手紙は終わっています)

フランス語テキスト



訳注1d) B.C.239-169ローマの詩人、劇作家。
訳注2d) 「ロランの歌」(1100-1125)の最後に作者として出てくる名前。
訳注3d) 1793-1843フランスの詩人、悲劇作家。
訳注4d) 1633-1699フランスの詩人、古典悲劇の代表者の一人。ギリシア悲劇を題材としました。
訳注5d) ロマン主義支持者。テオフィル・ド・ゴーチェが1833年の彼の書物の中で正式に認めました。(ポショテク版の注による)
訳注6d) 18世紀末から19世紀にかけてのヨーロッパを中心とした文芸思潮。古典主義、合理主義に反対し、感情、主観、空想、個性を重視しました。フランスの文学ではユゴー、ミユッセ、絵画では、ドラクロワ、音楽ではショパンなどがあげられます。
訳注7d) リズムには、rythme ではなく、rhythme が使われています。
訳注8d) ヴィクトル・ユゴーの「笑う男(1869)」の登場人物で、子供をさらい、怪物に仕立てます。(ポショテク版の注による)
訳注9d) 原文は travailleurs となっています。労働者と訳することも可能ですが、ここでは、詩人という観点から訳しました。
訳注10d) 原文では academicien
訳注11d) 1790-1869フランスの詩人、政治家。ロマン派。
訳注12d) 1802-1885フランスの詩人・劇作家・小説家。ロマン主義の巨匠。
訳注13d) 1799-1879フランスの詩人。
訳注14d) 1782-1854フランスのカトリック思想家、キリスト教社会主義者。
訳注15d) 1810-1857フランスの詩人、小説家、劇作家。ロマン派。
訳注16d) 1549?-1553?フランスの物語作家。
訳注17d) 1694-1778フランスの作家、思想家。
訳注18d) 1621-1695フランスの詩人。童話文学。
訳注19d) 1829-1893フランスの歴史家、批評家。姓の前に M. が付いています。名前の省略ならHなので、氏にあたるMonsieurと解釈しましたが、なぜここだけ使われているのか、ランボーの意図は分かりません。
訳注20d) 原文 garcon epicier は、食料品店の若い店員という意味です。食料品は、例えば紅茶、コーヒー、パスタ、チョコレート、調味料、缶詰などの乾物です。サラリと言えると訳した部分は、debobiner つまりボビンから糸を繰り出す(ことができる)という言い方をしています。ちょっとひねった言い方をしたのでしょうか。
訳注21d) 原文 panadif という言い方は、辞書に載っていません。意気地の無い(人) panade をランボーがもじったのでしょうか。
訳注22d) 最初のロマン派(「若きフランス」)以降の、「芸術のための芸術」、高踏派のことで、1884年にC・メンデスが「新ロマン派」と呼んでいます。(ポショテク版の注による)
(初期の)ロマン派へのアンチテーゼとして生まれた高踏派も、ロマン主義運動の中から生まれた「新ロマン派」という見方が、当時はあったことが分かります。
訳注23d) 1811-1872フランスの詩人、小説家、批評家。高踏派の先駆者。
訳注24d) 1818-1894フランスの詩人。高踏派。
訳注25d) 1823-1891フランスの詩人。高踏派。
訳注26d) 原文は chose morte (動かない物)であり、いわゆる静物(画) nature morte (動かない自然物)をランボーなりに言い替えたものと思われます。動かない morte は、本来、死んだという意味なので、動かない物=死んだ物と読めます。高踏派の詩の題材に対するランボーの批評が含まれているのでしょう。
訳注27d) 1821-1867フランスの詩人。象徴派の先駆者とされます。
訳注28d) 以下、ランボーが当時の詩人や作家に、彼なりの批評をしています。今では、有名ではない人も多く含まれています。私も、作品等も読んだことのない作家が多いので、主要と思われる一部の作家等以外は、注を省略しました。
訳注29d) 原文は les gaulois で、ゴール(ガリア)人風の人たちという意味です。ガリア風とは、陽気、あけすけ、猥雑、おおらかなどの古代人の気質を意味します。ここでは、後のミュッセがやさ男、色男というイメージで使われているので、好色と訳しました。
訳注30d) 1841-1909フランスの詩人。1861年から La Revue fantasiste (「幻想作家誌」)を責任編集。(ポショテク版の注による))
訳注31d) 1839-1907フランスの詩人。ランボーの『地獄での一季節(地獄の季節)』の「不可能」に名前が出てきます。「科学と進歩の時代風潮に迎合する作風で世に認められ、… 1902年、第一回ノーベル文学賞受賞。(青土社『フランス詩大系』(注:岡川友久)より)」
訳注32d) 1842-1908フランスの詩人。パリ生まれ。高踏派から、パリの貧しい人々の生活を歌う詩人となりました。
訳注33d) フランス語は Parnasse 。元々はギリシアのパルナソス山から来た言葉。19世紀後半のフランス詩の流派。歎美主義的( l'art pour l'art 「芸術のための芸術」)。ロマン派の感傷的、主観的な姿勢への反動として生まれ、客観的な美をテーマとしました。ルコント・ド・リール、バンヴィルなどが中心です。
訳注34d) 1840-1909フランスの詩人。「現代高踏詩集」に作品を掲載。
訳注35d) 1844-1896フランスの詩人。この手紙ではヴェルレーヌは高踏派となっていますが、文学史的には象徴派の代表的詩人とされます。ランボーはこの一群の詩人・作家の中でヴェルレーヌに最高の評価を与えています。また、ヴェルレーヌは早い時期からマラルメ(1842-1898フランス象徴派の代表的詩人)から高く評価されています。詩の言語空間を追求したマラルメだからこそ、ヴェルレーヌの人生と詩の結びつきが見えたように思えます。ランボーのこの手紙には、マラルメの名前はありません。あくまでも、唯物的、客観的な詩を目指したランボーの未来の詩の範囲にマラルメは見えなかったのかも知れません。

訳注主要参考文献
Rimbaud Oeuvres completes / La Pochoteque / Le Livre de Poche、Larousse、
小学館 Bookshelf Basic (CD-ROM)、岩波書店『広辞苑』新村出編、
青土社『フランス詩大系』窪田般彌責任編集

翻訳・解読:門司 邦雄
掲載:2001年7月1日

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