手 紙

Lettres

À E. Delahaye (juin 1872)
エルネスト・ドラエー宛、1872年6月

糞っパリ、ろぐがづ、72年

 友よ、
 そうさ、アルデュエンヌ世界パノラマでの生活ときたら、びっくらこだ。デンプン(訳注1)と泥を食らって、地酒に地ビールを飲んでる田舎、ぼくには懐かしくないね。君が悪口を言い続けるのも、もっともだ。だが、こちらも、蒸し器に、積み木に、超狭い。さらにやり切れない夏だ。暑さがひどく続くわけではないが、天気が良いのはみんなには好都合で、みんなはブタと分かるので、ぼくは夏が嫌いだし、夏が少しでも出てくれば、ぐったりってわけだ。壊疽にかかったかと怖くなるほど、のどが乾く。アルデンヌやベルギーの川、洞窟、ぼくが懐かしいのはこれだよ。
 こちらには気に入った飲み屋が何軒もある。「アブゾンフ(訳注2)」学院、万歳! ボーイは無愛想だけどね。アブゾンフ、この氷河のサルビアの効き目による陶酔は、最も鋭敏にして震えがくる中毒(訳注3)だ。とはいえ、後で糞の中でゴロ寝する羽目になるけどね!
 何だい、お決まりの嘆きかい! 確かなことは、ペラン(訳注4)糞食らえだ。世界亭(訳注5)のカウンターも糞食らえだ、それが公園に面していようがいまいがだ。もっとも、ぼくは世界亭を呪ってはいないよ。――ぼくはアルデンヌが占領されて、ますますひどく搾り取られれば良いと強く望んでいるのさ。この程度では、まだ普通のことだ。
 マジで、君はたくさん悩むべきだね、たぶん、たくさん歩き、たくさん読まないといけないね。いずれにせよ、役所と実家(訳注6)に閉じこもるのは良くないよ。バカはそこいらから離れてやらないとね。慰めを売る気はないけど、惨めな日々に、いつもどうりの生活(訳注7)は気休めにならないと思うよ。
 今のところ、ぼくは夜、仕事をしている。真夜中から朝の5時までだ。先月、ムッシュー・ル・プランス通りのぼくの部屋は、サン・ルイ高校の校庭に面していた。狭い窓の下には、大きな木が何本も繁っていた。朝の3時になって、ロウソクの光が弱まると、木々の中ではいろんな小鳥がいっせいにさえずりだす。さあ、お終いだ。仕事はやめた。ぼくは朝のはじめの言うに言われぬ時に我を忘れて、木々や空に見とれなければならなかった。高校の寄宿舎は全く静かだった。でも、すでに通りでは、心地よく響く断続的な荷車(訳注8)の音。――ぼくは瓦に唾を吐きながら、槌型パイプでタバコを吸っていた、屋根裏部屋だったからね。5時には、パンを買いに降りていった、パン屋の開く時間なんだ。労働者があちこちを歩いている。ぼくにとっては、居酒屋で酔っ払う時間だ。ぼくは食事に戻り、7時に寝るんだ。その頃には日が出てワラジ虫が瓦の下から這い出してくる。夏の朝のはじまりと冬の夕暮れ、これが、ここでぼくがいつもうっとりしてきたものだ。
 もっとも、今は、きれいな部屋に住んでいる、奥のない中庭に面しているけど、3メートル四方しかないんだ。(訳注9)――ヴィクトワール・クーザン通りはバ・ラン(訳注10)・カフェのところでソルボンヌと交わり、反対側の端はスーフロ通りにぶつかっている。――ここでは、ぼくは夜通し水を飲んでいて、いつ朝なのかも分からない。眠れないし、息がつまる。ということさ。
 君の要求はきっと認められるさ! 文芸誌「ラ・ルネサンス」(訳注11)を見かけたら、糞をたれてやるのを忘れるな。ぼくはシャルルヴィルからパリに来た糞移住者(訳注12)のペスト野郎を避けてきたんだ。それで、季節には糞だ。ついでに、勇気だ。(訳注13)
 元気でな。

A. R.
ヴィクトワール・クーザン通り、クリュニー・ホテル

フランス語テキスト


糞っパリ


 この手紙は故郷シャルルヴィルの友人ドラエーに宛てたものです。ランボーのパリでの詩生活を知る貴重な資料になっています。とくに、後期韻文詩篇の「朝の名案(朝のよき想い)」、「イリュミナスィオン」の「夜明け(曙、黎明)」の詩を読む上での参考とされています。故郷にいるドラエーに対して、ちょっと得意げなランボーが勢いにまかせて書いた手紙で、造語がたくさん使われています。ここでは、主にポショテク版の P. ブリュネルの注に従って翻訳しました。



訳注1) farineux は、デンプン質の食品、デンプンの多い野菜、という意味です。
訳注2) l'academie d'Absomphe (ラカデミーダブゾンフ)と書かれています。パリのサン・ジャック通りの実在の酒場 L'Academie d'absinthe のことです。アブゾンフはリキュールのアブサン(あるいはアブサント)のもじりです。主成分のニガヨモギ(アルテミシア)をはじめとしたハーブ、香料をアルコールに漬け込んで作るリキュールで、度数は60度と高く、甘いアニス香があり、緑色をしています。水で割ると白濁します。ピカソをはじめ多くの画家たちに親しまれたことでも有名です。ニガヨモギの成分に幻覚作用があるので法的に禁止されました。現在では、法的に管理された基準値以内の成分でのみ少量生産されています。
訳注3) 原文は habits で衣服の意味です。しかし、英語の場合は、習慣性、つまり麻薬などの意味にも使われています。ここでは、隠語的に後者の意味を含ませて使用したのではないかと考えました。
訳注4) イザンバールの後任、1871年7月教職を辞職後、「ノールエスト(北東)」新聞の編集者となった。ランボーは詩を送って拒絶されました。
訳注5) l'Universe は、シャルルヴィルのカフェで、ランボーが友人と会うときに使いました。
訳注6) 原文では maisons de famille で複数になっています。maison de famille は相続した家という意味ですが、ここでは実家と訳しました。
訳注7) 原文では les habitudes で習慣、慣習(複数)という意味です。
訳注8) tombereaux は、現在ではダンプカーのことです。ここでは荷台を傾けて、積荷を下ろすようになっている2輪の荷車のことです。「砂利車」とも訳されています。
訳注9) この「3メートル四方」が、部屋のこととも、庭のこととも取れます。私はカンマで切られた後、mais (しかし)で始まっていることと、手紙のはじめに部屋の狭さが書かれているので、部屋のことと取りました。庭の説明と読める訳もあります。なお、文の並びは上の訳の通りです。
訳注10) ライン川下流という意味です。
訳注11) La Renaissance, journal litteraire et artistique のことです。ヴェルレーヌ、ランボーの詩が掲載された文芸雑誌で、ランボーの「烏」が1872年9月に掲載されています。
訳注12) 原文では caropolmerdes となっています。この言葉は、Carolopolitains つまりシャルルヴィルの奴らという造語に、糞という語尾(?)が過去分詞形で付けられていて、手紙の最初の「糞っパリ Parmerde」とも対応しています。
訳注13) 原文 colrage は courage (勇気、元気)のもじりとされています。なお、最後の「元気でな」は正しく「 Courage 」と書かれています。

翻訳・解読:門司 邦雄
掲載:2002年5月13日

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