初期詩編

Photo : Kunio Monji

Poésies

Sensation
センセーション

夏の青い夕暮れには、小道を行こう、
麦の穂に刺され、草を踏んで:
夢見心地で、足元はひんやりと。
額を風に吹かれながら。

何も語らず、何も思わず:
ただ限りない愛がこみ上げ、
「自然」のままに、ボヘミアンのようにどこまでも、
―女と一緒のように、しあわせに。



――― x x x ――― (別ヴァージョン)

夏の美しい夕暮れには、小道を行こう、
麦の穂に刺され、草を踏んで:
夢見心地で、足元はひんやりと:
額を風に吹かれながら…

何も語らず、何も思わず…
ただ大いなる愛が心に入り:
「自然」のままに、ボヘミアンのようにどこまでも、
―女と一緒のように、しあわせに!

1870年4月20日

フランス語テキスト
バンヴィル宛の手紙です。

翻訳:門司 邦雄
掲載:2000年11月、2020年9月8日


ボヘミアン


 これは、現存するランボーの初期の詩でもとくに早い方の作品です。

 タイトルの訳「センセーション」、これは文字通り日本語化した英語にしてみました。フランス語ならサンサスィオンです。仏和辞書を引くと、まず「感覚」と出ています。形容詞になるとサンサスィオナルで、扇情的な、センセーショナルなとなります。意味は英語でもほとんど同じです。でも、通常の「感覚」なら sens (サンス)、英語なら sense (センス)です。サンサスィオンは、感覚そのものというより感覚器官が刺激されて引き起こされる感覚という意味であり、この詩では触覚が多く取り上げられていることから、堀口大學は「感触」というタイトルに訳しました。ここでは、体感としてのワクワクする感覚、感動、興奮、センセーションという意味で使ったのでしょう。下の「 Sensation 私訳」も参照し てください。

 帽子をかぶらずに、風に吹かれて、夏の夕方、あてもなくさまよい歩くことがセンセーションだったと思われます。麦の穂にチクチクと刺されることは子供の性的な快感を暗示させます。この感覚自体は少女的な気もしますが…。夕暮れの野原の中で女性と一緒という夢想に続いていると思います。

 ところで「夏の青い夕暮れ」の「夕暮れ soir 」ですが、言葉の意味としては、夕方4時から寝るときまで、あるいは真夜中(12時)までを言います。ランボーがイメージした「夕暮れ」は、緯度が高いので夜が暗くならない北フランスの夏の夜でしょう。前置詞に par が使われていますが、par には何々を通ってという意味があります。日本の夏の夕暮れのように短い時間ではなく、比較的長い時間をイメージしていると思います。「どこまでも」歩いていけると思われる時間のイメージです。

 ボヘミアンはボヘミア(チェコ西部)地方の人から来た言葉です。ボヘミアがビールの産地でモラビアがワインの産地だそうです。語彙としては、ジプシー、放浪者、浮浪者、19世紀後半のフランスで社会の規範から自由に生きるアーティスト。つまり、当時の格好良いコスモポリタン・アーティストだったのです。意味としては、ジプシーとかヒッピーに近いのでしょうが、ファッションとしてボヘミアンが復活しているので(2002年5月)、そのまま「ボヘミアン」と訳しました。「「自然の」ままに」と訳したところは、原文では、Par la Nature です。実は、この行は原文では最後の行となります。最初の行は、Par les soirs blues (青い夕暮れには)で始まります。ここでは、Par を対応させて効果を出していると思います。Par la Nature の Par は、ポショテク版の注では a travers で、大自然を横切ってという意味になります。私も最初は「自然に包まれ」と訳しました。この意味の場合、本来なら dans la nature (自然の中を、どこか遠くに)の方が妥当でしょう。むしろ、par ( sa ) nature では、生まれつき、本来という意味があるので、「「自然の」ままに」(本能のままに)と訳した方が、つづく言葉が生きてくるように思い、変更しました。まだ15歳の田舎の少年だったランボーの背伸びが出ている詩だと思います。なお、別ヴァージョンは高騰派の詩人、テオドル・ド・バンヴィルに、第二回「現代高踏派詩集」に掲載してもらうために、手紙で送った詩です。詩の掲載はされませんでした。

解読:門司 邦雄
掲載:2001年1月29日、2002年1月28日、2月6日、5月13日・31日、2003年2月4日


Sensation 私訳


 ランボーの初期詩篇の中でも、最も初期のフランス語詩、「センセーション」を私なりに訳してみました。4行、2節の詩のスタイルも6行2節に変えてしまった他、原文から離れて訳した部分もあります。Sensation の翻訳というより、ひとつの解釈として読んでください。



                春風にさそわれて

        夏の青い夕べには
風に吹かれて
小道を行こう
麦の穂を感じ
ひんやりとした
草を踏み

        何も語らず
何も思わず
愛だけが限りなくあふれ
ボヘミアンのように
どこまでも遠く、心のままに
女と一緒のように、幸せに

1870年3月



 今年(2002年)の3月、Microsoft France のショッピングページに Sensations d'Afriques という広告が掲載されました。そこには、アフリカツアーをはじめ、バナナとか、シロップとかの商品がありました。マダガスカルツアーも載っていました。
 この sansation はどう訳したらよいのだろうかと考えました。「アフリカの感覚」ではないし、「アフリカのセンセーション」でもない。「アフリカの熱い風」というコピーにすれば、もっともイメージが近いのではないかと思いました。

 同じ3月に Evenements "sensations" というタイトルで、モーターボート、カーレース、気球、ヘリコプターの体験、観戦ツアーが載りました。Evenements "sensations" は、やはり「ドキドキ・ワクワク体験ツアー」という訳になるのでしょうか。空、風、熱、スピードなどの体感なのでしょう。この詩を「センセーション」というタイトルで翻訳したときに、海ではなく、空、風を思い浮かべました。パラグライダーの体験を思い出して、その写真を載せました。私はごく短い期間しかパラグライダーで飛んでいませんが、このタイトルに近い感覚に思えました。

 冬の厳しい北フランス、温暖化の進んだ現在よりもさらに厳しい冬だったと思います。春が来て、春風が吹けば、思いはもう麦の実る初夏へ。高緯度地方の長い夏の夕暮れ、やさしい風とひんやりとした地面、体に当たる麦の穂の心地よい刺激。ランボーの幸せな夢想が感じられる詩です。この詩の日付は3月になっています。当時からこのような sensation の意味はあったのでしょうか。あるいは、翻訳しにくいこのタイトル sensation が、ランボーの新しい感覚だったのでしょうか。

私訳・解説:門司 邦雄
掲載:2002年5月31日

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