地獄での一季節

Une saison en enfer

Données Christianisme
「キリスト教との別れ」所見

 『地獄での一季節』の最後の詩「永別 Adieu 」は、タイトルどおり詩との別れ、つまり「見える者(見者)」の詩人であるランボー自身との別れと、「見える者」の道連れであったヴェルレーヌとの別れを書いた詩です。しかし、この詩には、もうひとつの別れが書かれています。それはキリスト教との別れ、神からの自由です。『地獄での一季節』の成立と内容を考えると、本来のメインテーマは、キリスト教からの自由、近代的自我の救済と思われます。かつては、ランボーが『地獄での一季節』で詩を放棄したと捉えられていたので、ドラマとしての文学放棄がクローズアップされたのでしょう。

 『地獄での一季節』は1873年春、ロッシュの実家で書き始められます。1873年5月、ランボーは友人ドラエーへの手紙に「ぼくは、「異教徒の書」か「黒人の書」という総タイトルとなる短い物語を書いているんだ。これは獣と無垢なんだ。…」と書いています。この「異教徒の書」というタイトルは、すなわちキリスト教徒ではないランボーの書(言葉)という意味でしょう。この「異教徒の書」、「黒人の書」が、ブリュッセル事件後、『地獄での一季節』として書き上げられます。

 『地獄での一季節』の草稿(「悪い血筋」と「にせ回心」)の裏面に、「福音書に反する散文」というタイトルで編者によりまとめられた3編の散文が書かれています。ポショテク版のタイトルには「反する( contre- )」が付けられていますが、それ以前は「福音書に関する散文」というタイトルでまとめられていました。これらの散文は、聖書の「ルカの福音書」、「ヨハネの福音書」に書かれたキリストの奇跡を取上げ、その奇跡が実は行われなかったという話に書き直したものです。「福音( Évangile 、英語は Gospels )」は「キリストによりもたらされた神からの喜び」という意味であり、新教(プロテスタント)という意味もあります。これらの散文がいつ書かれたか、つまり『地獄での一季節』の前・後、いずれも考えられますが、私は前に書かれたと思います。

 ランボーの母は信心深いキリスト教徒でした。ランボーのキリスト教への反抗には、母への反抗という面もあるでしょう。ランボーはすでに1871年7月に書かれた初期詩篇の詩「初聖体拝領」で「キリストよ! 生命力の永劫の盗人、おお、キリスト」と書いています。11歳のランボーの「初聖体」の知的でかしこまった写真が残っています。信心深い良い子だった頃のランボー、あるいは仮面のランボーがそこに写っています。18世紀後半、19世紀のフランスでは、革命と産業革命によるブルジョワジーの隆盛とともにキリスト教の力が弱体化していきます。豊かになった人々から神への祈りが弱くなっていきました。もちろん、ルルドの泉への巡礼ブームとか、さまざまな形でキリスト教信仰は根強い力をもってはいました。児童教育においても、教会、神学校から公立の学校に指導権が移っていきました。シャルルヴィル高等中学校の生徒だったランボーが、通学生として授業に参加していた神学校の生徒を皮肉って書いた散文「 Un coeur sous une soutane (僧衣の下の心)」も残っています。

 ドラエーが「親しい思い出 Souvenirs familiers 」で描いている革命家ランボーは人間精神の解放と科学(技術)の進歩による物質的労働からの解放を信じていました。パリ・コミューンを契機に、革命家ランボーは「見える者」ランボーとなります。すでにキリストあるいはキリスト教に反旗をひるがえしたランボーが、なぜ『地獄での一季節』でキリスト教、あるいは神からの自由を書かなければならなかったでしょうか。

 ランボーはパリに出でヴェルレーヌを道連れに見える者の詩論を実践します。具体的には、同性愛、麻薬、アルコール、放浪という形での、キリスト教社会、ブルジョワ社会に対する反抗でした。やがてふたりは、ロンドンに行き、ここで生活します。当時のロンドンは産業的にフランス、パリより進んでいましたが、社会下層の労働者階級の生活は悲惨なものでした。さらに1873年からは世界的な規模のリセッションが起こっています。科学の進歩が生活の豊かさ、労働からの解放に結びつかないことを見せつけられます。1873年の5月、ランボーは見える者の計画を見直し、詩人、作家としての社会変革と自己の確立、さらにロッシュでの生活から自由になるために「異教徒の書」「黒人の書」に着手します。「福音書に反する散文」は、『地獄での一季節』の前に書かれた、キリスト教から自由になる試みだったのでしょう。
 1873年5月、ランボーとヴェルレーヌは再びロンドンに行きます。しかし、もはや生活は破綻し、ヴェルレーヌはランボーから逃げてフランスで生活することも考えるようになります。1873年の7月にブリュッセル事件が起こりましたが、このときもヴェルレーヌは妻マチルドに復縁を呼びかけた手紙を書き送っています。ふたりの別れ話はもつれ、ヴェルレーヌはランボーに発砲、弾は左手首を貫通します。

 ブリュッセル事件後、『地獄での一季節』は一気に書き上げられます。「序文」では「最後の「ギャア!」の音をあげかかったときに、昔の饗宴の鍵を捜そうと思った。…愛がその鍵だ。」とあり、回心をほのめかす言葉が見られます。「悪い血筋」では、異教徒に成りすまし「異教徒の血が戻ってきた! あの「精霊」は近い、なぜキリストはおれの魂に気高さと自由とを与えておれを救わないのだ。」と書き、フランス社会を異教徒のランボーが救いを求めてさ迷います。やがて「「神」の話は、これで終わりだ。おれは、救われても自由でいたい。だが、どうやってそれを求めるのだ?」と開き直りますが、この劇は時間切れで幕を閉じます。なお、この部分は、ランボーが始めに企画した「異教徒の書」「黒人の書」にあたる部分と考えられます。続く「地獄の夜」では、「善と幸福への改心を、つまり救いを、おれは垣間見たことがあった。あの幻を今でも描けるのか、地獄の風は賛美歌を吹き鳴らしたりはしないのだ!」とランボーが今いる「地獄」をレポートするとともに「おれは己の洗礼の奴隷だ。」と、地獄の源泉を分析します。さらに「異教徒だったら地獄も襲って来れないのに。」と、地獄から、つまりキリストと神から逃れる道を暗示します。『地獄での一季節』の流れに対し、挿入した形となっていますが、「錯乱 I 」は見える者の道連れであったヴェルレーヌとの同性愛生活の、「錯乱 II 」は見える者の詩法のレポートが書かれています。このふたつの神への背徳は、神によって落とされた地獄でもあります。「おれは虹によって地獄に堕とされていた。「幸福」はおれの宿命だった、悔恨だった、うじ虫だった。」虹はノアの大洪水後に現れた神と地の契約の印です。「不可能」でランボーは、科学、哲学、教会などこの世の権威を否定しながらも、無垢な精神による「救い」が不可能であることを書き示します。続く「閃光」でランボーは「おまけに科学はのろい。」と、科学による緩慢な社会進歩による「救い」では間に合わないとします。そして「おれたちにとって永遠が失われるのではないのか!」と、永遠の命、魂の救済を断念します。
 救いの無い「地獄の夜」にも、朝が来ます。『地獄での一季節』は「朝」そして「永別」で終わります。「朝」といっても、まだ星がまたたき、夜明けの光は見えていません。ランボーがいたところは「あの人の子が扉を開けた、いにしえのあの地獄」でした。イエス・キリストを表す「人の子 Fis de l'homme 」に定冠詞を付け小文字に書き替え「あの人の子 le fis de l'homme 」とすることで、キリストの神性を否定しています。キリストという人は存在しても、神の子キリストはまだ生まれていない。そう読み取ると、「この世の「生誕の日」を拝みに、おれたちが行くのはいつなのか!」という言葉の意味が理解できます。「生誕の日(ノエル)」は、キリストという名前ではない新しいメシアの生誕の日でしょうか。そこには「砂浜と山々を越えて」行かなければなりません。この箇所は、私には旧約聖書に書かれた、モーセがエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した「出エジプト記」を連想させます。海が分かれる紅海( red sea )は、実は葦の茂る浅瀬( reed sea )を誤って書き写したと言われます。山々はシナイ山をイメージしているのではないでしょうか。「天の歌、民の歩み! 奴隷たちよ、この世を呪うまい。」と締めくくられます。もちろん、このことはランボーがカトリックから改宗し、ユダヤ教あるいはイスラム教に教えや救いを見出そうとしているということではありません。ランボーは神の子キリストの存在しない地上を描いただけだと思います。

 とうとう「永別」の時がきます。回想のなかで、悲惨なロンドンの濃霧の中に座礁する「おれたちの舟」は、見える者ランボーとヴェルレーヌの「酔っぱらった船(酔いどれ船)」の最期の姿なのでしょう。この詩では、現代の世界と旧約聖書の世界が、回想の中に二重像となって浮かび上がってくるように見えます。ヨーロッパの産業革命と帝国主義の象徴である巨大な満艦飾の黄金の軍艦が、植民地を占領した白人の上に降臨します。そして、反逆児ランボーは全ての栄光を奪い取られ「土に戻され」ます。旧約聖書、創世記に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり…(「新共同訳聖書」1993年)」とあり、神は土から人を作りました。そして、エデンを追放されたアダムは「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。/お前がそこから取られた土に。/塵にすぎないお前は塵に返る。(同上)」という言葉を暗示しています。土に戻されたランボー、ヴェルレーヌの手も失ったランボー、つまり「見える者ランボー」はここで死に直面します。
 いや、全ての形而上の力を奪われたランボーは現代の一個人として立ち上がり、神の力の及ばない世界に進んで行きます。血塗られた顔は、過ぎ越しの羊の血のように、神による殺害を免除してもらえるのでしょうか。「審判の光景は、神様ただおひとりの悦楽だ。」この「光景 vision 」は「幻影、幻」という意味でもあります。我々は、神の正義では支配されない現代に生きている。いや、これから生きていく。「夜が明けたら、燃える忍耐で身を守り、輝く大都会に侵入するのだ。」 この「大都会」は「町」の複数であり、モーセと後継者ヨシュアによりイスラエルの民が長く苦しい時をかけてカナンの地の都市に戻ったことを連想させます。同時に、ランボーにとって、ロンドンに、新しい産業都市へ戻ることを意味しました。ランボーは神の愛も背徳の愛も捨てて、近代(現代)産業社会の相対的な一個人、「ひとつの魂とひとつの肉体」として、再び歩み始めます。

 『地獄での一季節』はランボー自らが本にした唯一の詩集です。よく、ランボーは自分の詩をほとんど発表しなかったと言われますが、ランボーが「現代高踏派詩集」に掲載してもらおうと詩を送ったりしていたことを考えると、発表したかったけれど機会があまり無かったと考える方が妥当だと思います。実際に詩を書いていた頃のランボーは才能はあっても、社会的には認められていない田舎出の金の無い青年でしたから、詩集を作ることは難しかったでしょう。もっとも、「見える者」ランボーにとってはブルジョワ文化人の雑誌に掲載されることは「糞 merde 」だったかも知れません。私が興味を引くことは、ランボーが早くから新聞記者、編集者になろうとし、また記事を書いて送りつけていたことです。ランボーは新聞に収入と発表の場のふたつを期待していたと考えられます。産業的、政治的な情勢の変化で、当時のフランスでは、少人数でも地方でも以前よりは簡単に新聞を発行できる状況だったと思われます。1868年(第二帝政末期)に新聞の事前検閲制度が廃止されたことの影響もあると考えられます。現在、比較的簡単にインターネットで情報発信の基地を作れるようになったことと幾分似ているかも知れません。
 『イリュミナスィオン』の原稿はヴェルレーヌに託したランボーですが、『地獄での一季節』は自ら本にしました。もっとも印刷代が払えなかったため、友人に配っただけで未出版でした。ランボーはキリスト教との別れをテーマとしたこの本を、新しい思想として発表したかったのではないでしょうか。しかし、ランボーも時代も変転して行き、新しい歩みを始めたランボーは、この本を忘れていったのだと思います。

所見:門司 邦雄
掲載:2002年7月7日、2002年11月3日

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