地獄での一季節

Une saison en enfer

L'Impossible
不可能 (訳注1)

 ああ! 子供の頃のあの生活、どんな天気でも(訳注2) 街道を歩きまわり、異常なまでに飲食をつつしみ、どんな乞食よりも無欲で、祖国もなく友もないことを誇りにしていたとは、なんと愚かなことだったのだ。―おまけに、ようやく、そのことに気付くとは!
 ―女どもの清潔さと健全さに寄生して、愛撫の機会は一度だって逃さない野郎どもを、おれが軽蔑したのは正しかった、もっとも今では女どもがおれたちと気が合うことはほとんど無いのだが。
 おれが逃げ出すのだから、おれの軽蔑はみんな正しかったのだ。
 おれは逃げるぞ!
 訳を話そう。
 昨日もまた、おれはため息をついていた。「なんてこった! おれたちはこの世でも十二分に地獄堕ちだ!(訳注3) このおれも、地獄堕ちの仲間に入ってから、もう長いものだ! おれは全員を知ってるんだ。いつでも、互いに見分けがつくし、互いにうんざりしてるんだ。おれたちは愛(訳注4)は知らない。だが、おれたちは礼儀正しい。世の中との関係もとてもきちんとしている。」これが驚くほどのことか? 世の中! 商人どもだ、お人好しだ!(訳注5)―おれたちが恥をかかされることもないのだ。―
 だが、選ばれた人々はどのようにおれたちを受け入れるのだ? ところで、けんか腰で浮かれた奴らがいる、偽の選ばれた人々だ、奴らに近づくには、厚かましくするか、へりくだるかしかないからな。選ばれた人々なんて、こいつらだけさ。お世辞を言ってくれる奴らではないのだ!
 おれに安っぽい理性(訳注6)が戻ってきて―すぐに去って行くが!―おれの不快感は、おれたちが西洋にいることを充分に早くから考えなかったためだと分かる。西洋の泥沼だ! 輝きがあせた、形がゆがんだ、動きが乱れたと、おれが信じているのではない… よろしい! おれの精神は、東洋の終焉以来、精神のこうむって来たあらゆる残酷な発展を完全に引き受けることを望んでいるのだ… おれの精神が、それを望むのだ!
 …おれの安っぽい理性はこれでおしまいだ!―今は精神が権威で、精神はおれが西洋にいることを望んでいる。おれが望んでいる結末にするには、精神を黙らせなくてはならないだろう。
 おれは悪魔(訳注7)に、殉教者の栄誉も、芸術の光も、発明家の誇りも、略奪者の熱情も送り出して(訳注8)いた。おれは東洋と、最初にして永遠の英知とに戻っていた。―それも今では怠惰で粗野な夢に思える!
 だが、おれは現代の苦悩を逃れる楽しみを思ってもいなかった。コーランの折衷的な知恵を当てにしてもいなかった。―ところが、科学の宣言以来、つまりはキリスト教以来(訳注9)、人類は「戯れ」、分かり切ったことを自らに証明し、その証明を繰り返す楽しみに心を膨らませ、このように生きているだけだ、この中にこそ真の責め苦があるのではないのか! 愚かでずるい拷問だ。おれの精神のたわ言の原因だ。たぶん自然もうんざりすることだろう! プリュドム氏(訳注10)は、キリストとともにお生まれだ。
 というのも、おれたちが霧を栽培しているからではないのか! おれたちは水っぽい野菜と一緒に熱病を食べているのだ。さらに、酒だ! タバコだ! 無知だ! 献身だ!―これらすべては、原始の祖国、東洋の英知の思想から、はるかに遠いのではないのか? こんな毒が発明されながら、どうして現代社会なのだ!
 「教会」の人々は言うだろう。分かりました。しかし、あなたが言わんとしているのはエデンの園(訳注11)のことです。東洋の諸民族の歴史の中には、あなたのためになることは何もありません。―そのとおりだ。おれが夢見ていたのはエデンの園だ! 古代の種族のあの純潔(訳注12)が、おれの夢にとって何なのだ!
 哲学者は言うだろう。世界には年齢がないのです。ただ単に、人類(訳注13)が移動します。あなたは西洋にいます。しかし、あなたの東洋に住むのも自由です、あなたが必要などんな昔の東洋でも、―そこに心地良く住むのも。敗北者になってはいけません。哲学者たちよ、君たちも、君たちの西洋の出だ!
 おれの精神よ、気をつけろ。乱暴な救いを選ぶな。自分を鍛えろ! ―ああ! 科学はおれたちにとって充分に速くは進まない(訳注14)
 ―だが、おれは自分の精神が眠っていることに気づく。
 もし、おれの精神が今からいつもしっかりと目覚めているのなら、おれたちはすぐに真理に至りつくだろう。真理は、泣いている天使たちとともにおれたちを取り囲むだろう!…―もし、おれの精神が今の今までしっかりと目覚めていたのなら、はるか昔に有毒な本能に身を任さなかっただろうに!…―いつもしっかりと目覚めていたら、英知の中を航海しているだろうに!…
 おお! 純潔よ! 純潔よ!
 おれに純潔の幻影を見せてくれたのは、この目覚めの一瞬なのだ!―あの精霊によって、神に至りつけるのに!(訳注15)
 胸もはり裂ける不運だ!

フランス語テキスト



訳注1) 原題「 L'Impossible 」は「(その)不可能なこと」という意味ですが、タイトルとして分かりやすいように「不可能」としました。この詩は「地獄での一季節」の中で、「悪い血筋」に次いで、始めの企画、つまり1873年に友人ドラエー宛の手紙に書かれた「異教徒の書」「黒人の書」という題名、そしてテーマ「無垢( innocence )」に該当する詩と思われます。この詩のタイトル「不可能」は、「純潔」な「精神の目覚め」により「人は神に至りつく」ことは「不可能なこと」という断念を表しているのでしょう。この詩は「地獄での一季節」全体の流れでは起承転結の「転」にあたる詩と思われ、主題も地獄の報告からの脱出に変わっています。この詩には、キリスト教以外の宗教的知恵として、東洋、エデンの園、コーランが出てきます。妹イザベルの証言によると、父のアラブ関係の文献やコーランの仏訳などがランボー家にはあったそうです。家にはほとんどいなかった父の、ランボーへの影響を見ることもできるでしょう。
 余談ですが、ナポレオンの言葉として有名な「 Impossible n'est pas Francais 」は、直訳すると「不可能はフランス語では無い」となります。
訳注2) 原文は、par tous les temps です。始め tout le temps (いつも)と取り違えていましたので訂正しました。
訳注3) 原文は Ciel! sommes-nous assez de damnes ici-bas! です。Ciel! は、元々は空、天という意味ですが、ここでは「なんてこった!」という感嘆詞として使われています。「ありがたい!」という意味もあります。文末の ici-bas (この世、下界)と言葉遊び的に「天上」を対比させています。篠沢秀夫は、assez de damnés を assez de+名詞として、地獄落ちがたくさんと言う意味に取っています。しかし、sommes-nous は、われわれは…であるの倒置です。同じ倒置の強調で考えた場合、むしろ、avons-nous (われわれは持つ)、Y a-t-il (…がある)になると思われます。私は文意の流から、assez de を副詞的に読みました。
訳注4) 愛徳とも訳される普遍的な愛 charité です。
訳注5) 「お人好し」は原詩では les naïfs となっています。「ナイーブな人たち」です。意味的には、純朴、素朴、単純、無邪気、世間知らず、ばか正直などさまざまです。ランボーが、商人は単純な仕事だと考えていたことが判ります。「地獄での一季節」を書いた時点で、植民地の砂漠に行く予感は書かれていますが、そこで商人になることは予感されてはいなかったようです。
訳注6) 原詩では、deux sous de raison で、直訳すれば「2スーの理性」、古典的に意訳すれば「三文の理性」となります。
訳注7) 悪魔とはヴェルレーヌのことでしょう。
訳注8) 「送り出す envoyer 」は、くれてやったなどと意訳されています。ランボーは詩を手紙で送り付けていたことも多いですから、直訳のままにしました。
訳注9) この「キリスト教」は、原詩では、「科学」とも「人類 ( l'homme ) 」とも同格と取ることができますが、「プリュドム氏…」の行の意味に合わせ「科学」と同格と読みました。はじめは並置と取りましたが、ブリュネルの注には、科学の宣言と同格で、ヨハネによる福音書第8章14節の「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来てどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。」(新共同訳聖書)が引用され、イエスはこのように自己を証明していると説明されています。ジャンコラの注にも、「科学的」と同様にキリスト教徒が(非論理的に)神の存在や教義を受け入れていると書かれています。これらの読みから、並置ではなく、つまりは…の意味に訳し直しました。宇佐見斉は、人間と同格と取り、「キリスト教も、人間も」と訳しています。
訳注10) 作家アンリ・モニエ( Henri Monnier 1799-1877)の作中人物 Joseph Prudhomme を引いています。当時の無能でもったいぶった、俗物のブルジョワの代名詞に使われていた名称だそうです。
訳注11) エデンの園は、旧約聖書の「創世記 La genèse 」に出てくるアダムとイヴの住んだ楽園です。ギリシヤ語のパラディソスで、パラダイスとも呼ばれ、楽園の象徴とされます。エデンから流れる4つの川の名前は、ピション、ギボン、ヒデケル、ユフラテで、ヒデケルがチグリス川、ユフラテがユーフラテス川とされます。
訳注12) 「純潔」は「 pureté 」です。ここでは、エデンの園の人類、つまり原罪を負わされていない、「無垢 ( innocence )」の意味の方が近いと考えます。ランボーが pureté という表現を選んだのは、キリスト教の意味合いを強調したかったからでしょうか。
訳注13) 「人類」は「 l'humanité 」で、「人間性」とも取れます。
訳注14) 産業革命以降続いてきた、科学技術による社会変革の歩みを意味しています。次の詩「閃光」には、時代意識としてさらに明確に取り上げられます。
訳注15) 「あの精霊」は、定冠詞がついた l'esprit です。少し前にも esprit が出てきます。こちらは文意から「おれの精神 mon esprit 」と訳しました。la chair et l'esprit 肉と霊というように、esprit は、精神だけでなく、心、霊なども意味します。キリスト教の聖霊は、Saint-Esprit, Esprit Saint と書かれます。「悪い血筋」では、第2節から第3節にまたがって「 l'Esprit 」が出てきます。「おれたちはあの「精霊」に赴くのだ。おれの言っていることは、とても確かなのだ、神託なのだ。なるほど、異教徒の言葉でしか説明できないのだから、黙っていよう。/異教徒の血が戻ってきた! あの「精霊」は近い、なぜキリストはおれの魂に気高さと自由とを与えておれを救わないのだ。ああ! 福音は去ったのだ! 福音よ! 福音。」 この「 l'Esprit 」は、聖 Saint が付いていませんから、異教徒にとっての「キリスト教の聖霊」を意味するのでしょう。

 ポショテク版の注で、ブリュネルは小文字で始まるこの箇所の「精神」についても、福音書の教えの影響を見ており、ヨハネによる福音書第14章26節を引用しています。「しかし、弁護者 Paraclet 、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊 l'Esprit Saint が、あなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(新共同訳聖書)

 私は、ランボーがこの「不可能」でキリスト教による救済の不可能を描いたと考えます。エデンの園を引き合いに出し、原罪という穢れの無い状態も、ドラエーに「黒人の書」「異教徒の書」のテーマとして示した無垢 innocence ではなく、よりキリスト教的な純潔 pureté と書きます。そして、純潔でもなく精神 esprit が常には目覚めていないランボーには、聖霊、つまりは、小文字の「あの精霊」によりキリスト教の神の処に導かれ救済されることは不可能と結論します。

 この「不可能」はキリスト教の教えによる救いの、続く「閃光」は人間の労働による救いの否定がテーマにされていると考え、その意味を強調して翻訳しました。

翻訳・訳注:門司 邦雄
掲載:2001年9月25日、2006年6月13日

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