地獄での一季節
昔、覚えているとおりなら、おれの生活は、あらゆる酒が流れ、あらゆる心の開く饗宴であった。(訳注2)
ある夜、おれは美の女神(訳注3)を膝に乗せた。―苦々しい女だと思った。―毒づいてやった。
おれは正義に対して武器を取った。
おれは逃亡した。おお、魔女よ、悲惨よ、憎しみよ、おまえらだぞ、おれの宝が託されたのは!
おれは、心の中から人としての希望をことごとく抹殺した。猛獣のように音も無く跳びかかって、あらゆる喜びを絞め殺した。(訳注4)
おれは死刑執行人を呼び求めた、非業の死をとげながら、奴らの鉄砲の台尻に喰らいついてやるんだ。殻竿(訳注5)を呼び求めた、砂と血で窒息してやるんだ。不幸がおれの神だった。おれは泥の中に寝そべった。罪の風で体を乾かした。それから、気も狂わんばかりに(訳注6)ひどい悪戯をやってのけた。
そして春はおれに気持ちの悪い白痴の笑い(訳注7)を持ってきた。
ところで、ごく最近、最後の「ギャア!」(訳注8)の音をあげかかったときに、昔の饗宴の鍵を捜そうと思った。そこでなら、また食欲がでるかも知れない。
愛(訳注9)がその鍵だ。―このことが閃めくとは、おれは夢を見ていたのだ。
「おまえはハイエナかなんかのままさ…」と、あんなに愛らしいケシ(訳注10)の花の冠をおれにかぶせてくれた魔王(訳注11)がののしる。「おまえの欲望とエゴイズムとすべての大罪を抱えこんで死んでしまえ。」
ああ、それはもうたくさんだよ。でも、ねえサタン、そんなにイライラした眼つきをしないでくれ! 延び延びになっているいくつかの無気力な小品(訳注12)を待っている間に、あんたは作家に描写や教化の才が無いのがお好みだから、おれの地獄落ちの手帳から忌まわしい何ページかを破り取って見せてあげよう。(訳注13)。
フランス語テキスト
訳注1) ランボーの初版でも5つのアステリスクマークで、タイトル無しの序文の意味でつけられたものでしょう。なお、5つの★が付けられたテキストもありました。
訳注2) ランボーが初期詩編前半を書いていた頃と取る読みと、初期詩編前半に描かれた古典の時代と取る読みがあります。
訳注3) la Beauté 擬人化された「美」です。
訳注4) この文から pour+inf の文章が3文続きます。篠沢秀夫は、pour をはじめが目的、改行後の文を結果と取っています。宇佐見斉は、「死刑執行人…」の文のみ目的に訳しています。私は、倒置されていますが1文目が「襲い掛かって絞め殺した」で結果、2、3文目は、社会への反抗の頭の中のイメージで実際の出来事ではないと考えました。実際に死刑執行が行われればそこでお仕舞いで地獄行きです。このような解釈も可能とは思いますが、この2文はダブルイメージ的に反逆をイメージした文と考え目的と取りました。
訳注5) 殻竿 fléaux は連枷(れんか)とも言います。ヌンチャクのような構造をした脱穀の道具ですが、ここでは連枷による刑罰のことです。竿の代わりに(棘げ付きの)鉄球の付いた武器を言うこともあります。ここでは前の死刑執行人 bourreaux と類似した音によるダブルシーン的な効果を持たせた2文だと思います。「災い」という抽象的な意味もありますが、「砂と血」という生々しいイメージを引き出すために具体的に訳しました。
訳注6) 気も狂わんばかりにの à la folie を、篠沢秀夫は狂気 folie が 擬人化されていて、「狂気に一杯食わしてやった」と訳していますが、私は前出の美の女神 la Beauté と違い小文字なので、通常の熟語「気も狂わんばかりに」の意味に取っています。その方が、次行の「春は…」に繋がると思います。ブリュネルは、「錯乱の II 言葉の錬金術」の「気違い沙汰 folie 」との関連を見ています。
訳注7) 後期韻文詩編を暗示していると読むことができます。
訳注8) ヴェルレーヌがランボーの左手首に発砲した、いわゆるブリュッセル事件のことと取るのが自然でしょう。
訳注9) 原文 charité 、英語では charity となります。愛徳と訳されることが多いです。一般的には慈善という意味になりますが、ここでは神学上の「神と隣人に対する愛」という意味で使用されています。ブリュッセル事件の後、キリスト教に帰依することを一時的に考えたという意味でしょう。
訳注10) 麻薬の暗示と思われます。
訳注11) この魔王(サタン)はヴェルレーヌのことを指すと考えられます。「地獄での一季節」中の悪魔も同じです。悪魔、サタン、「錯乱 I 」の「愚かな処女」は、すべてヴェルレーヌのことと読めます。
訳注12) 『イリュミナスィオン』のことと考えられます。
訳注13) 悪魔、サタンがヴェルレーヌだと読めば、『地獄での一季節』は、ヴェルレーヌに宛てて、あるいは読まれることを前提として書かれたということになります。
翻訳・訳注:門司 邦雄
掲載:2001年5月2日、2006年2月26日、2006年3月21日、2020年11月23日、2020年11月29日
『地獄での一季節』ランボーと主語
小林秀雄が「地獄の季節」で主語 je を「俺」と訳したことが、後の翻訳に強い影響を与えたことは周知の事実でしょう。その後、篠沢秀夫、宇佐美斉の翻訳では、基調に「わたし」、「私」が使われ、篠沢秀夫は一部では主語を出さない日本的な文も使用しています。
私も、日本語の主語「私(わたし)」「俺(おれ)」「僕(ぼく)」のどれを使うか、迷ってきました。日本語の場合、「私」とくに「わたくし」は、公的な場所、社会的な立場での発言で多く使われ、また書き言葉でもあります。「俺(おれ)」は、公的な場所での言葉ではありませんが、実際には口語の日常語として広く使われています。また、自分を卑下しない言葉でもあります。「おれ様」はありますが、「わたくし様」、「ぼく様」はありません。「おぼっちゃま」は「御坊様」のから来ています。「僕(ぼく)」は文字通り、身分が下、目下の意味が付加された言葉です。ですから、子供の一人称として、あるいは、相手を敬う形で自分を語る時、あるいは、相手より自分が上ではないという親しい印象を与えたい時に使われます。最近では、女性のインターネットでのひとり語りでも良く見かけます。
『地獄での一季節』は、やはり若者の反抗の文学だと思います。ランボーが反抗を「そのまま」書いたと言う意味ではありません。情動的に見えながらも、きちんと計算された文章であり、それだからこそ、強い表現力とともに厳かささえ感じられるのだと思います。しかし、この序文に書かれたように、ヴェルレーヌに宛てられたランボーの地獄堕ちの手帳と考えるのであれば、公的な「私、わたし」より、私的な「おれ」の方が基調となる主語として良いと思います。もちろん、明らかに口調が変わったり、引用的な部分に関しては、その箇所に適当な主語で訳すべきだと思います。基調を「私」「わたし」としてしまうと、反抗的自我から離れていくように感じてしまいます。
『地獄での一季節』は、愚かな処女の告白の形をとった「錯乱の I」を除いては、独り語り、独り芝居の中で様々な口調に転調していると私は捉えています。「イリュミナスィオン」の「人生 I 」の「おれはあらゆる文学の劇的傑作を演じる舞台を手に入れた。」という言葉が、『地獄での一季節』を暗示していると考えるなら、『地獄での一季節』は朗読し演じる詩ということも考えながら、翻訳する必要があると思いました。
解読:門司 邦雄
掲載:2001年5月2日、2006年2月26日、2006年3月21日、2020年11月23日、2020年11月29日
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