地獄での一季節

Une saison en enfer

Mauvais sang
悪い血筋 (訳注1)

 おれがゴール人(訳注2)の先祖から受け継いだのは、青白い目玉(訳注3)、偏狭な脳味噌、けんかの下手さだ。おれの身なりだって、先祖同様に野蛮なのだ。もっとも、髪にバターを塗りはしないが。(訳注4)
 ゴール人は、獣の皮はぎ人、草の焼き手と、当時、最も無能だった。
 彼らから、おれが受け継いだのは、偶像崇拝と涜聖愛、―そうさ、あらゆる悪徳、怒り、淫乱、―淫乱がすさまじい、―とりわけ嘘と怠惰だ。
 おれはあらゆる手仕事が大きらいだ。親方と職人、どいつもこいつも百姓だ、卑しい身分だ。ペンを持つ手も鋤を持つ手と同じだ。―手仕事ばかりの時代だ!―おれは自分の手はもう決して持たないのだ。(訳注5)さらに、奉公人の身分も、同じように関係ない。(訳注6)乞食暮らしの正直さも痛々しい。犯罪者にも、去勢者にも、むかつく(訳注7)、もっとも、このおれは、無傷なのだ(訳注8)、そんなことはどうでもいいが。
 だが! おれの怠惰を今まで守り導いてくれるとは、誰がおれの言葉をこんなに不実にしたのだ? 生きていくために自分の体さえ使わずに、ガマよりも怠惰に、おれはどこででも生きてきた。ヨーロッパの名家のことはみんな分かっている。―おれの家と同じで、なにもかも「人権宣言」(訳注9)から手に入れてきたってわけだ。―良家の子弟も知り尽くした!



 フランスの歴史に、どこかひとつでもおれの経歴(訳注10)があればなあ!
 いや、全く無い。
 おれがいつでも劣等種族だったことは、おれには明らかなのだ。おれには反乱が納得できない。おれの種族は略奪のためにしか蜂起しなかった、自分が殺したのではない獲物に群がる狼のように。
 おれは「教会」の長女、フランスの歴史を思い出す。おれは土百姓で、聖地への旅をしたのかも知れない。スワビア(訳注11)の野を行く道やビザンチウム(訳注12)の眺め、ソリム(訳注13)の砦を覚えている。マリアへの崇拝や、あの十字架にかけられた人(訳注14)への同情が、俗世間の数知れぬ妖術のさなかでおれに目覚める。―おれは癩を病み、太陽に蝕まれた壁の下、割れた壺やイラクサの上に座っている。―もっと後には傭兵(訳注15)となり、ドイツの夜空の下に露営したのかも知れない。
 ああ! さらに、老女や子供と一緒に、森の赤い空地の魔女の夜宴で踊っている。
 おれはこの世とキリスト教より昔は思い出せない。この過去の中に自分を思い出してもきりがない。だが、いつもひとりで、家族もなく、いったいどんな言葉を話していたのか? キリストの集会にも、キリストの代理という―領主の集会にも、おれの姿は全く見えない。
 前世紀に、おれは何だったのか、今のおれしか見つからない。浮浪者もいない、曖昧な戦争もない。劣等種族が全てを覆った、国民を、同じく、理性を、国家と科学を。
 おお! 科学だ! 全てを取り戻したぞ。体のためにも、精神のためにも、―臨終の聖体拝領だ、―医学に哲学がある、―民間薬と編曲された流行歌だ。(訳注16)さらに王侯貴族の気晴らしと禁じられていた遊びだ! 地理学、宇宙形状学、力学、化学!…
 科学、新興貴族だ! 進歩。世界は進む! なぜ回らないんだ?(訳注17)
 これは数の幻想だ。(訳注18)おれたちはあの「精霊」(訳注19)に赴くのだ。おれの言っていることは、とても確かなのだ、神託なのだ。なるほど、異教徒の言葉でしか説明できないのだから、黙っていよう。



 異教徒の血が戻ってきた! あの「精霊」は近い、なぜキリストはおれの魂に気高さと自由とを与えておれを救わないのだ。ああ! 福音は去ったのだ! 福音よ! 福音。
 おれは飢えたように「神」を待っている。おれは太古からの劣等種族の出だ。
 おれはアルモリア(訳注20)の浜辺に着いた。ああ、夕暮れに町々が灯をともす。(訳注21) 今日の仕事は終わりだ。おれはヨーロッパを去る。潮風がおれの肺を焼く、僻地の気候がおれを褐色になめす。泳ぐんだ、草を踏みつぶすんだ、狩をするんだ、とりわけタバコを吸うんだ、煮えたぎる金属のように強い酒を飲むんだ、―ご先祖様が火の回りでしていたように。(訳注22)
 鉄の手足、黒ずんだ皮膚、猛り狂った眼をして、おれは戻ってくるだろう。おれの顔から、人はおれを強い種族と見るだろう。おれは黄金を手に入れるだろう、怠惰で粗暴になっているだろう。女たちが酷暑の国から帰ってきたこの粗野な不具者たちの世話をするのだ。おれは政治事件に巻き込まれるだろう。救われる。
 今、おれは呪われている。おれは祖国を憎んでいる。一番良いことは、酔いつぶれて砂浜で眠ることだ。



 出発はしない。―この道をまた行くのだ。おれの悪徳(訳注23)を背負って。それは物心ついて以来、おれのわき腹に苦悩の根を伸ばしてきた―空に昇り、おれを打ち倒し、引きずって行く。
 最悪の無垢と最悪の臆病だ。もういいや。おれの嫌悪と反逆を世間に持ち込むな。
 さあ!進め、荷物だ、砂漠だ、倦怠と怒りだ。(訳注24)
 誰に雇われるんだ? どんな獣を崇めるんだ? どんな聖像を攻撃するんだ? どんな心を引き裂くんだ? どんな嘘をつかねばならないんだ? ―どんな血の中を歩むんだ?
 それよりも、正義から身を守るのだ。―人生は大変、痴呆は簡単、(訳注25)―干からびた拳で棺の蓋を開け、しゃがみ込み、窒息するのだ。それなら、年も取らないし、危険もない。恐怖はフランス人には向かないのだ。(訳注26)
 ―ああ! おれはこんなにも見捨てられているんだから、どんな神の絵姿にでも完成への情熱を捧げるんだ。
 おお、おれの自己犠牲、おれの驚くべき愛!(訳注27)
 だけど、この世なんだ!
 「深き淵より、主よ」か、おれは馬鹿だ!(訳注28)



 まったく子供の頃から、おれはいつも徒刑場に閉じ込められる、あの強情な徒刑囚(訳注29)に感嘆していた。彼の滞在で聖なるものとなった宿屋や下宿を訪ねた。「彼の思い」で、青い空と畑に花開く労働を見ていた。町では彼の宿命を嗅ぎだしていた。彼は聖人にまさる力を、旅人にまさる知恵を持っていた―だが、彼の栄光と理性の証人は、彼だけ、彼ひとりだけだった!
 冬の夜、宿もなく、着る物もなく、食べ物もなく、道を歩いていると、ある声がおれの凍てついた心を締めつけた。「弱さか強さか、おまえはここにいる。それは強さだ。おまえはどこに行くのかも、なぜ行くのかも分からない。どこにでも入れ、すべてに答えろ。おまえが死人だったら、それ以上殺されることもないだろう。」 朝になると、おれはひどく虚ろな眼をして、死んだような様子だったので、出会った人には「たぶん、おれは見えなかっただろう。」
 町で、泥は突然、赤と黒に見えた(訳注30)、隣の部屋をランプが巡るときの鏡のように(訳注31)、森の中の宝のように! さあ、がんばれよ、とおれは叫んでいた。そして、空には炎と煙の海を、右にも左にも、すべての富がおびただしい雷のように燃え上がるのを見ていた。
 だが、乱痴気騒ぎも女との付き合いも、おれには禁じられていた。ひとりの仲間もいなかった。いきり立った群集の前に立ち、銃殺小隊に向かい合い、彼らには解らない不幸に、許しながら泣いているおれの姿が見えていた!―まるでジャンヌ・ダルクだ!―「司祭よ、教授よ、支配者よ、おれを裁判所に引き渡すとは、おまえらは間違っている。おれはここの国民ではなかった。キリスト教徒でもなかった。おれは処刑場の中で歌を歌っていた種族(訳注32)の出なのだ。おれには法律が分からない。道徳感覚もない。おれは獣だ。おまえらは間違っている…」
 そうさ、おれはおまえら(訳注33)の光明には目をつぶっている。おれは獣だ、黒人だ。だが、おれは救われるかも知れない。おまえらはインチキ黒人(訳注34)だ。おまえらは独善的で、冷酷で、強欲だ。商人め、おまえも黒人だ。裁判官め、おまえも黒人だ。将軍め、おまえも黒人だ。皇帝め、老いぼれの痒み(訳注35)め、おまえも黒人だ。おまえはサタンの工場で作られた無税の酒を飲んだのだ。―この国民は熱病と癌を吹き込まれている。不具者と老人は、ゆでてくれと申し出るほど見上げたものだ。―もっとも利口なのはこの大陸を去ることだ。ここでは、この哀れな人々を人質にとろうと、狂気がうろついている。おれはノアの息子(訳注36)、ハムの子孫の真の王国に入るのだ。
 おれは今でも自然が分かっているのか? 自分が分かっているのか? ―言葉はもうたくさんだ。死人(訳注37)は腹の中に埋めた。叫びだ、太鼓だ、踊りだ、踊りだ、踊りだ、踊りだ! 白人が上陸して、おれが虚無に落ちていく時さえ分からない。
 飢えだ、渇きだ、叫びだ、踊りだ、踊りだ、踊りだ、踊りだ!



 白人どもが上陸する。大砲だ! 洗礼を受け、着物を着て、働かなければならない。
 おれは心臓に止めの恩寵(訳注38)を喰らった。ああ! これは思ってもみなかった。(訳注39)
 ぼくは悪いことはなにもしていません。日々はぼくを軽やかに過ぎていくでしょう、過ちを悔いることも免じてもらえるでしょう。善を捨てたも同然の魂の苦悩を、ぼくが味わうこともないでしょう、その魂には葬式の大ろうそくのように厳しい光りがまた灯されるのです。良家の子弟の運命として、夭折の棺が澄んだ涙に包まれるのです。なるほど、放蕩は愚かです、悪徳も愚かです。腐ったことは投げ捨てなければなりません。しかし、時計が純粋な苦悩の時しか告げなくなることはないでしょう! ぼくは幼子のように抱き上げられて、すべての不幸を忘れて楽園で遊び戯れることでしょう!(訳注40)
 急ごう! 他の生き方があるのだろうか?―富の中で寝ていることはできない。富はいつでも公共の利益だった。神の愛だけが知恵の鍵を授ける。自然とは善の光景でしかないことが分かった。さらば、妄想よ、理想よ、誤ちよ。
 救いの船から天使たちの理性ある歌がわき起こる。これが神への愛(訳注41)だ。―ふたつの愛です! わたしはこの世の愛でも死ねます、神に身を捧げても死ねます。わたしが去れば、さらに苦しむいくつもの魂を残してきました! 御身は難船した人々の中からわたしを選んでくれましたが、残された人々は、わたしの友ではありませんか?
 彼らを救いたまえ!
 理性がわたしに生まれました。この世は善です。わたしは人生を祝福しましょう。同胞を愛しましょう。これはもう子供の頃の約束事ではありません。老衰や死から逃れる希望でもありません。神はわたしの力を作られました、わたしは神をたたえます。



 倦怠はもう好きではなくなった。怒り、放蕩、狂気、おれはその陶酔も悲惨もことごとく味わった、―重荷はすべて下ろされた。めまいを起こさずにおれの無垢の広がりを認めよう。(訳注42)
 これからはもう鞭打ちの刑の力づけを求めることもできないだろう。おれはイエス・キリストを義理の父として、一緒に婚礼の船に乗り込んだとも思っていない。(訳注43)
 おれは自分の理性の囚人ではない。「神」の話は、これで終わりだ。(訳注44)おれは、救われても自由でいたい。だが、どうやってそれを求めるのだ? 軽薄な好みはおれから去った。献身も神の愛も、もう要らない。おれは感じやすい心の世紀(訳注45)を懐かしんでもいない。侮蔑にせよ愛にせよ、だれもがそれぞれ正しいのだ。それなら、おれは良識という天使の梯子(訳注46)の頂上に席を取るのだ。
 安定した幸福に関しては、家庭の幸福だろうとなかろうと…、いや、おれには無理だ。おれは気が散りすぎるし、弱すぎる。人生は労働により花開く。昔からの真理だ。だが、おれの人生には充分な重みがない、この世で大切な行動という地点のはるか上に浮かび漂っている。
 これではまるでオールドミスだ、死を愛する勇気もない!
 もしも、神がおれに、天上の、天空の静寂を、祈りを与えてくれるなら、―昔の聖者のように。―聖者か! 強い人さ! 隠者か、もう必要のない芸人さ!
 絶え間のない道化芝居! おれの無垢には泣かされる。人生とはみんなに操られる道化芝居だ。(訳注47)



 もう、たくさんだ! これが罰なんだ。―「前ぇー進め!」(訳注48)
 ああ! 肺が焼ける、こめかみはガンガン鳴る! この太陽の中で、夜が眼の中をうねるんだ! 心臓が…、手足が…
 どこに行くんだ? 戦いへか? おれは弱いぞ! みんなは進んで行くんだ。道具は、武器は… もう時間だ!
 撃て! さあ!おれを撃つんだ! 撃たないんなら降伏してやるぞ。―卑怯者め!(訳注49)―自殺してやるぞ! 馬の脚もとに身投げしてやるぞ!
 ああ!…
 ―こんなことにも慣れていくんだ。
 これがフランス人の生きる道さ、名誉への小道ときたもんだ!(訳注50)

フランス語テキスト



第1節
訳注1) 原題 Mauvais sang は、悪い・卑しい+血筋・血統という意味でしょう。ランボー自身の血筋が、本文で語られている劣等種族 race inférieure であるゴール人の出であるという意味と考えています。なお、se faire du mauvais sang 心配するという口語の慣用句もあり、「悪い血」にはランボー個人の不安・心配・憂鬱なども含まれているという読みもあります。ランボー個人の血という意味では、むしろ、母親の、つまりキュイフ家の農民の血と、母の男兄弟ふたりが放浪と飲酒で家を没落させたように、その血に流れる破滅的への情念という意味が含まれていると思います。
訳注2) ゴールはラテン語で Gallia (ガリア)で、古代ヨーロッパの、ケルト人(ガリア人)居住地域を指します。紀元前400年頃には現在のイギリス、フランス、ドイツ南部、スイス、オーストリアなどに広がっていました。ケルト人は自然崇拝の多神教でした。紀元前1世紀にシーザー(カエサル)に征服され、ローマ帝国領となりました。フランスという言葉の元となるフランク族はゲルマン民族の一部族で、5世紀末に北部ガリアにフランク王国を建国しました。ランボーは自分を劣等種族のゴール人の末裔としています。しかし、実際にはフランク族はケルト人と融合してフランス人に変質していきました。
訳注3) l'oeil blue blanc です。たとえば、黒い目は yeux noirs というように一般的には複数で表します。また、blue blanc という形容詞をふたつ並べた表現も見ません。服のストライプの青と白を blue/blanc と表示しますので、これに近い表現とも考えてみました。しかし、インクのブルーブラックは blue-noir です。さらに、青白い虹彩の目は、blue (de) ciel です。ciel は、天ですから、異教徒で正当フランス語がよく分からないランボーなら、天ではなく、無 blanc なのかも知れません。blanc は、顔色が青白い時にも使います。この bleu blanc 青白い目、青ざめたという意味ではないでしょうか。なお、Fowlie の英訳では、blue-white eyes と訳されています。
訳注4) シャトーブリアンの「アメリカ紀行」「墓の彼方から回想」の記述からの引用とされます。
訳注5) 産業革命以降、とくに鉄道の発達により、中世から続いてきた職人組合の徒弟制度(巡礼)が廃れてきました。手仕事 métier は、現在では広く仕事の意味に使われる言葉です。ここでも、工場などでの単純労働に近い意味で使われているように思います。
訳注6) ランボーが自ら出版した本では、même tres loin となっていました。même は、形容詞・副詞なので、動詞が無い文章となるため、動詞 mener の現在形 mene と訂正されてきました。しかし、私は même で、動詞 être が省略されていると読みます。直訳すれば、同様にたいへん遠いとなります。つまり、農業従事者も嫌だ、工場労働者も嫌だ、さらに、奉公人つまり現在のホワイトカラー、サラリーマンも嫌だとなり、前からの繋がりがよりよく理解できます。今風に翻訳すれば、リーマンなんか、真っぴらごめんだ、となるのでしょうか。この文から後は、収入のために人に使われない生き方が列挙されます。なお、mener とした場合は、遠くまで運ばれるではなく、重大な事になるという意味にとられているのではないかと考えます。
訳注7) 原文を直訳すると、犯罪者(複)も、去勢者(複)同様、(おれに)嫌悪感を起こさせる。
訳注8) intact は、無傷、無垢という意味で、社会的に所属しないことの意味と読んでいましたが、ジャンコラと篠沢秀夫は、去勢されていないという意味と読んでいます。ここでは、去勢者の後にコロンでこの文が続いているので、去勢されていないという意味でしょう。
訳注9) 1789年、フランス革命で立憲議会が採択した「人間と市民の権利の宣言」です。基本的人権、主権在民などを規定しました。個人の所有権と経済活動の自由を認め、近代ブルジョワ市民社会を確立しました。フランス革命以降、ロッシュで有力な地主になった母方のキュイフ家のことを示していると読めます。後期韻文詩篇の「渇きの喜劇 1. ご先祖」も参照してください。名家と訳した famille は、家族とも訳せますが、最後の良家の子弟 fils de famille まで続いていると考え、名家と訳しました。ブルジョワジーや土地所有者は、実は成り上がりだという意味でしょう。

第2節
訳注10) antécédents は複数で、経歴、前歴という意味の他、先祖という意味もあります。第1節からは先祖と読めますし、ランボーの劣等種族のルーツ探しとも読めます。しかし、次に続く内容が、ランボー自身を歴史の中に見る表現になっていますので、経歴と訳しました。
訳注11) ドイツ南部シュワーベン地方のこと。以下、十字軍の進路に従って地名が旧名で挙げられています。スワビア公国として十字軍に参加しました。
訳注12) 東ローマ帝国の首都、ローマ皇帝コンスタンティヌス I 世が遷都してコンスタンティノポリスと改名。現在のイスタンブール。
訳注13) エルサレムの旧名。
訳注14) le Crucifié でキリストとなりますが、ここでは le crucifier と書くことで、異教徒ランボーとしてキリストを指しているのでしょう。俗世間の数知れぬ妖術の中に、マリア像とキリスト像が置かれています。
訳注15) 傭兵 reître は、15~17世紀にフランス騎兵部隊に雇われたドイツ騎兵。
訳注16) 体(身体)と精神のために取り戻したものが、次々に言い換えられて示されます。医学は民間薬で、哲学は流行歌です。
訳注17) ガリレオ・ガリレイの「それでも地球は回っている」のもじりです。
訳注18) ブリュネルはピタゴラスの数の幻想と解説しています。
訳注19) 原文はイタリック体の l'Esprit です。キリスト教の聖霊 Esprit Saint を異教徒ランボーなりに言い換えたのでしょう。定冠詞も付けられています。

第3節
訳注20) 7世紀ごろまでのブルターニュ地方の名称。イングランド西端のケルト人がアングロサクソンの圧迫を受け、海を渡ってブルターニュ(ローマ領アルモリカ)に移住し、ブルトン人となりました。
訳注21) Que + subj ですが、篠沢秀夫は願望の表現と読んでいます。私はシーンの流れから感動の表現にとりました。
訳注22) ヨーロッパを去り、僻地(実際には植民地)で一旗上げて、母国に戻ってくることが描かれます。当時のフランスの植民地政策、軍人の父などの影響も考えられますが、ランボーの後半生がイメージされている(予言的と言われる)語りです。

第4節
訳注23) 同性愛を暗示していると取られていますが、無垢、臆病、社会不適応なども含まれていると読めます。
訳注24) 前節でヨーロッパを去ることが示されますが、この節はその取り止めで始まります。にもかかわらず、軍隊のイメージが出てきます。普仏戦争、パリ・コミューン、植民地侵略、さらに父が軍人であったことなど、戦争が心に深く焼きついていたことが解ります。この節と最終節に出てくるフランス的生活は、軍隊生活でしょう。実際、ランボーはアフリカに行ってからも兵役を恐れていたとされます。
訳注25) 篠沢秀夫は、名詞+形容詞ではなく、名詞+ être +形容詞の省略形で、格言的な表現と取っています。私も同じ読みに直しました。
訳注26) 直訳すると「恐怖はフランス的ではない」となります。
訳注27) 愛は charité で、愛徳、慈愛とも訳されます。
訳注28) 軍隊生活、つまり正義から逃げよう、恐怖から逃げよう、それならなんでも良いから神に救ってもらおうという自分の願望に自答しています。

第5節
訳注29) 徒刑とは、ガレー船を漕ぐ漕役刑に代わる(主に港湾での)強制労働で、1748年から1852年まで行われました。ヴィクトル・ユゴーの「死刑囚最期の日」「レ・ミゼラブル」に徒刑囚の描写があります。(参考文献:『19世紀フランス光と闇の空間』/小倉孝誠著/人文書院) ユゴーの影響が見られます。
訳注30) 『イリュミナスィオン』の「少年時代 V 」にも「泥は赤か黒」と書かれています。当時の大都市のイメージで、ロンドン滞在が反映していると思いますが、特定の場所に固定された描写ではありません。
訳注31) 当時の豪華な室内の写真に、広く見せるために鏡が使用されている部屋を見ることができます。
訳注32) 「ゴール人の先祖」の指揮官がシーザーに征服されて処刑された時に歌を歌っていたという故事を書いています
訳注33) 篠沢秀夫は、vôtre lumière を「あなたの光」つまり「神の光」という意味の熟語として捉えています。私は、前後のおまえら vous への罵りの口調の語りの中の言葉として読めるのではないかと考えます。
訳注34) ジャンコラは、粗暴だが、無垢ではない者、つまり白人と解説しています。
訳注35) ブリュネルの訳注によると、ユゴーの「諸世紀の伝説」の エヴィラドニュス Eviradnus に「おまえは爪は無いのか、卑しい群れよ/おまえの肌の、皇帝たちのむず痒さのために!」とあり、ランボーはこの時点で、ユゴーも1873年1月9日に死んだナポレオンIII世を忘れていなかった。なお、篠沢秀夫は野望と訳しています。
訳注36) 「ノアの息子」は分りやすいように付け加えました。ハムはフランス語の読みではカムです。聖書に出てくるノアの息子(セム、ハム、ヤペテ)のひとりで、その子孫は現在のエジプト、ソマリア、エチオピアに住みついたとされています。ランボーの後半生がイメージされている語りです。
訳注37) 死人 les morts は、言葉 les mots の誤植ではないかという指摘もありますが、言葉遊びと読むこともできます。

第6節
訳注38) 原文は le coup de la grâce 。恩寵( grâce )の定冠詞がないと le coup de grâce で「留めの一撃」となります。
訳注39) 前節末のアフリカで踊り狂うシーンに突然、白人が上陸し、ランボーは「恩寵」の弾を受けます。ここからシーンは突然替わり、青年ランボーが神に帰依し天国に召されるシーンがどこか皮肉を込めて描かれます。
訳注40) pour + inf のこの文章は、遊び戯れるために抱き上げられる(目的・反語)とも、抱き上げられて遊び戯れる(結果・肯定)とも読めます。この節は、神に帰依して救われることを描いていることから、篠沢秀夫の読みに従いました。
訳注41) 天使の歌は神を称える歌ですから、amour divin は、神への愛です。ロベールには、Du à Dieu, à un dieu. l'amour divin とあります。

第7節
訳注42) apprécier には、高く評価する・認める、評価する・鑑定するなどの意味があります。評価する、計るという訳もあります。ランボーは(見える者の詩法の)倦怠、怒り、放蕩、狂気という重荷を前節で捨てました。残ったものは無垢の広がりということになります。重荷を捨てたランボーは、この節で現実生活にたち戻される展開となります。
訳注43) 以前は舅と訳しましたが、今では解りにくいので義理の父に直しました。ステンメッツによると、教会の長女がフランスであり、その夫がランボー(地獄の夫)で、舅がイエス・キリストとなります。つまりキリスト教によるフランスとランボーの結婚です。篠沢秀夫は、(カトリック)教会とランボーの結婚と読んでいます。キリスト教のシスター(修道女)は、神に貞操を捧げる、つまりキリストを夫とします。初期詩編の「初聖体拝領」では、ランボーはキリストに処女?を奪われたと信じる少女の苦悩を描いています。さらに、この節の後半には自分をオールドミスと喩えていることからも、篠沢秀夫の読みの方が妥当だと思います。なお、ジャンコラは、ランボーは教会ともフランスとも結婚する考えが無いと、両方に読める可能性を書いています。
訳注44) 前節の神による救済の話が、ここで切り替わり、現実生活への適応に戻っていきます。このことから、J'ai dit を発言終わりの意味の慣用句と読みました。言葉どおり、「神よと、私は言った。」という訳もあります。
訳注45) 初期詩編前半と取る解釈と、古典的な詩の時代と取るふたつの読みがあります。
訳注46) 篠沢秀夫は、ヤコブの天使の梯子から取られていると解説しています。ただし、神から自由になった良識の梯子です。
訳注47) mener を演じるという意味の動詞に読む訳もあります。みんなで演じられる道化芝居となります。

第8節
訳注48) 前節の現実の生活への考察から、この節では兵役に取られて戦争に駆りだされるシーンに替わります。これが、無垢と見える者生活に対する罰というわけです。
訳注49) 普仏戦争に破れ、ドイツ帝国と不利な講和条約を結び、パリ・コミューンを弾圧した当時のフランス政府軍の暗示があるのでしょうか。この節は、普仏戦争、パリ・コミューンなど、当時の情勢が反映していると思われます。
訳注50) フランス人(の男)の生きる道は、軍人なのだということでしょう。普仏戦争、パリ・コミューン、植民地進出など、当時の政治・社会情勢と、ランボーの兵役への恐れが強く反映していると思います。軍人だった父の影を認めることもできるかも知れません。小道は、裏道と言う意味ではなく、困難で遠い道という意味でしょうか。原文直訳は、「これがフランス的生活、名誉の小道だろう!」となります。

翻訳・訳注:門司 邦雄
掲載:2001年7月1日、2006年3月13日、2006年3月21日

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