地獄での一季節
おれは悪名高い毒を一息に飲み下した。(訳注2)―おれが聞いた忠告に三たび祝福あれ!―内臓が焼けている。猛毒に手足は引きつり、体はねじ曲がり、おれは地面にぶっ倒れる。のどが渇いて死にそうだ。息がつまる、叫び声も出ない。こいつが地獄だ。永遠の責め苦だ! 見ろ、火がまた燃え上がるぞ! おれは見事に焼けているぞ。どうだ、悪魔め!(訳注3)
善と幸福への改心を、つまり救いを、おれは垣間見たことがあった。(訳注4)あの幻を今でも描けるのか、地獄の風は賛美歌を吹き鳴らしたりはしないのだ! あれは数知れぬ魅惑的な人々、甘美なる宗教音楽、力と平和、高貴なる野心、その他いろいろだ。
高貴なる野心か!
おまけに、これでもまだこの世だ!―もし、地獄の罰が永遠ならば! 自分を切り刻みたい男は、充分に地獄堕ちだ、そうだろう? われ地獄にありと信ず、故にわれ地獄にあり。(訳注5)これは教理問答の実践だ。おれは己の洗礼の奴隷だ。両親よ、あんたらはおれの不幸を作った、あんたらの不幸も作った。かわいそうな無垢なぼくさ!―異教徒だったら地獄も襲って来れないのに。(訳注6)
―これでも、まだこの世さ! ゆくゆくは、地獄堕ちの悦楽がさらに深まることだろう。罪を犯すんだ、さあ早く。人間の法律によって、おれが虚無に落ちるために。
黙れ、黙るんだ!… 辱めるのか、非難するのか、ここで:(訳注7)火は下劣だ、おまえの怒りは恐ろしく馬鹿げていると言うのはサタンだ。―うんざりだ!… おれに吹き込まれた誤ち、魔法、インチキ香料、幼稚な音楽。(訳注8)―おまけに、おれが真理をつかみ、正義が判ると言うんだから(訳注9):おれは健全にして揺るぎない判断力を持ち、完成への準備ができているんだと… 買いかぶりだよ。 頭の皮が乾いてゆく。 憐れみを! 主よ、 怖いのです。 喉が渇きました、 からからです! ああ、 子供の頃よ、草よ、 雨よ、 石の水底の湖よ、「鐘楼が12時を打つときの月の光よ」(訳注10)…その時には、 悪魔が鐘楼にいる。 マリア様! 聖処女様!…―おれの愚かさがおぞましい。
おや、あそこにいるのは誠実な魂たちではないのか、おれのためを思ってくれる…。来ておくれ…。口のところに枕があって、あの魂たちにはおれの言葉が聞こえないのだ、あれは幽霊なんだ。それに、誰も他人のことなど決して考えはしない。近寄らないでおくれ。おれは焦げ臭いぞ、これは確かだ。
幻覚は数え切れない。これこそ正に、おれがいつも持っていたものだ:歴史も信じてないし、原理も忘れた。(訳注11) 幻覚のことは話さないのだ:詩人や幻想家が妬むからな。おれはもっとも豊かな者の千倍も豊かなのだ。海のように、けちになるんだ。
ああ、そうか! 命の時計は少し前に止まったんだ。おれはもうこの世にはいないんだ。神学は信頼できる。地獄は確かに「下に」ある―天国は上に。―炎の巣の中での恍惚と悪夢と眠り。
畑の中を注視すれば、何と多くの悪意(訳注12)がひそんでいることか… サタンのフェルディナン(訳注13)が野生の種子を持って走っている… イエスは緋色の茨の上を枝もたわめずに歩いてゆく…。イエスはかつて荒れた湖の上を歩いていた。(訳注14)ランタン(訳注15)が、エメラルド色の波の脇腹に、白い姿で茶色の紐を締めて、まっすぐに立っているイエスの姿を照らし出した…
あらゆる神秘を明かしましょう。宗教の神秘も、自然の神秘も、死、誕生、未来、過去、宇宙の進化、虚無。私は魔術幻灯(訳注16)の大家なのです。
聞いてください!…
私にはあらゆる才能があるのです!―ここには誰もいないのに、誰かいます。(訳注17)だから私は自分の宝をばら撒きたくはないのです。―お望みは、黒人の歌ですか、イスラム教の天女(訳注18)の舞ですか? 姿を消して欲しいのですか、「指輪」を捜しに水に潜って欲しいのですか?(訳注19) お望みとあれば、黄金も作りましょう、薬も作りましょう。
だから、私を信じなさい。信仰は心を軽くし、導き、癒すのです。みんな、おいで、―幼い子どもたちも―私はあなたがたを慰めたいのです。あなたがたのために心を広めたいのです、―この素晴らしい心を! ―かわいそうな(訳注20)人々、労働者よ! 私は祈りは要求しません。あなたがたが信頼さえしてくれれば、私は幸せになるのです。
―さて、己のことを考えよう。そうしたところで、この世が懐かしくなることもほとんど無いが。これ以上苦しまなくてよいとは運がいい。おれの人生は心地よい狂気でしかなかった、そいつが悔やまれる。
なあに! 思いつく限りの百面相をしてやろう。
確かに、おれたちはこの世の外にいる。何の音もしない。触れるもの(訳注21)もない。ああ! おれの城、おれのザクセン(訳注22)、おれの柳の林。数々の夕べ、朝、夜、昼… おれは疲れた!
怒りのために地獄を、傲慢のために地獄を、―さらに愛撫のために地獄を、おれは持たねばならないだろう。これでは地獄の合奏だ。
おれは疲れ果てて死にそうだ。これは墓場だ、おれはうじ虫に食いつくされるのだ、怖い、どうしようもなく怖い! サタンよ、おどけ者よ、おまえの魅力で、おれを溶かしたいのだな。異議あり。さあ、やってくれ!熊手(訳注23)の一撃、火のひとしずく。
ああ! この世にまた登るのだ! おれたちの醜さに目を向けるのだ。さらに、この毒、この限りなく呪われた口づけ(訳注24)に! おれの弱さ、世の中の残酷さに! 神よ、哀れみを、私をかくまってください。私はあまりにも乱れています!(訳注25) ―おれは隠されている、いや、隠されていない。
火が、堕地獄の男とともにまた燃え上がる。
フランス語テキスト
訳注1) 「にせ回心 Fausse Conversion 」というタイトルで草稿が残されています。
訳注2) この毒については様々な解釈がありますが、詩の内容と草稿のタイトルからキリスト教と解釈しています。ランボーはキリスト教の毒を洗礼の時だけではなく、見える者の実践により陥った状況から抜け出すために、もう一度飲み直したように思えます。
訳注3) この「地獄の夜」の悪魔あるいはサタン(魔王)は、ヴェルレーヌの姿で現れます。
訳注4) この言葉は、「地獄での一季節」の「*****」の「愛がその鍵だ」という言葉と対応していると考えられます。
訳注5) デカルトの「方法序説」の「我思う、ゆえに我あり」のパロディーです。
訳注6) 神、キリストが存在するから、地獄も存在するという考えです。異教徒であればキリスト教の神は存在しないので、地獄も存在しないという意味でしょう。「朝」にも「あの人の子が扉を開けた、いにしえのあの地獄」とあります。
訳注7) 2文がコロン(:)で結び付けられています。読点(。)にしてしまうと文意の対応が見えなくなり、後の文頭に説明や繰返しを入れると原詩の緊張感が薄れると考えて、コロン(:)のままにしました。この詩に多用されているスタイルです。
訳注8) ヴェルレーヌの詩法と、その影響のことでしょう。
訳注9) Et dire que...! で、…というんだから(驚き、憤慨)を表します。コロン(:)以下の文にも掛かっていると取りました。コロン以下に掛からない、つまりランボー自身の言葉と取れば、締めくくりは、傲慢だ、思い上がりだになります。
訳注10) この部分は原詩ではイタリック体で、アレクサンドラン(12音綴)の韻文詩です。ヴェルレーヌの Palallelement (平行して、一緒に)という詩集の Lune (月)の章のIの詩の最終行と同じです。韻文詩のスタイルであることから、この部分はヴェルレーヌの詩からの引用と考えられます。しかし、ヴェルレーヌが実際に書いた時期が不明なこともあり、ランボーの詩句をヴェルレーヌが引用したと取る評家もいます。
訳注11) 見える者の詩法によって幻覚を自在に見れたことと、その結果、歴史、原理などの認識が失われたという意味でしょう。
訳注12) malice は、今ではからかいの意味で使われますが、ここではやや古語の悪意の意味と思われます。悪意、つまり野に潜む悪意の幻覚は、サタンのフェルディナンであり、イエス・キリストでもあるのでしょう。
訳注13) 友人のドラエーによれば、ランボーの故郷アルデンヌ県ヴォージェ地方の農民が悪魔に付けた名前だそうです。
訳注14) 荒れた湖 eaux irrites は、文字通り直訳すれば苛立った水となります。湖ではなく波という訳もあります。聖書にはイエスが湖の上を歩く奇跡が書かれています。マルコによる福音書第6章には「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。」(新共同訳聖書)とあります。同様の記述が、マタイによる福音書、ヨハネによる福音書にも見られます。フランス語の聖書 La Bible de Jerusalem では、「湖の上を歩く」という見出しのところは eaux ですが、文中は海にあたる mer です。この湖はガリラヤ湖で、(濃度の低い)塩水湖なのですが、そのため mer と表現されたのかは、分かりません。なお、日本聖書教会の1955年版の聖書では mer は海と訳されています。
訳注15) ランタンは魔術幻灯(ファンタスマゴリー)を映し出す装置です。キリストが照らし出され、腰に紐(サッシュベルト)を締めています。
ゲネサレ湖のイエス
Jesus at the Lake of Gennesaret
画像は聖書のサイトから借用
パウロの回心
Paul's Conversion
画像は子供向け聖書「Holly Bible」から複写
訳注16) 魔術幻灯(ファンタスマゴリー) fantasmagorie は、暗い室内で幻灯を使用し、夢幻的な情景を映し出す幻灯、幻灯劇のことです。18世紀末に発明され、19世紀に流行しました。映画の前身でもあります。ここでは見者の詩法による神秘的な映像体験、幻覚のことを意味しています。自分は悪魔的、山師的、幻術の大家なのだという、自嘲的な自己認識も含まれていると思われます。
訳注17) 誰か quelq'un いるは、神あるいはキリストの存在を暗示していると思われます。ランボーが神に密告する存在に見張られていると読みました。「「見よ、ここにメシアがいる」、「いや、ここだ」と言う者がいても、信じてはならない。」(マタイによる福音書第24章、新共同訳聖書、フランス語の聖書ではメシアは le Christ となっています。)等の聖書の言葉が反映しているように思われます。
訳注18) houris (複数)は、イスラム教のコーランが熱心な信徒に約束している天国の美女のこと。
訳注19) 「指輪」は中世ドイツの英雄叙事詩「ニーベルンゲン Das Nibelungenlied 」の指輪、魔法の力を持った指輪のことと言われます。
訳注20) pauvre は、名詞の前にきているので、かわいそうな、哀れなの意味です。初め、貧しいと訳しましたが、この場合 pauvre は名詞の後に来るので、改めました。後の労働者(複数)と同格になっていると取りました。
訳注21) tact には、機知という意味もあり、篠沢秀夫はこちらの意味に取っています。
訳注22) ドイツ南東部サクソニア地方。
訳注23) 悪魔が持っている二又あるいは三又の熊手。
訳注24) 悪魔であるヴェルレーヌとの同性愛のことでしょう。前のおれたちの醜さという言葉も同性愛関係を暗示しています。
訳注25) se tenir bien で行儀が良い、se tenir mal で行儀が悪いという慣用句ですが、ここでは内容的に乱れていると訳しました。
翻訳・訳注:門司 邦雄
掲載:2001年8月3日、2006年3月14日、2006年3月29日、2020年11月23日
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