資 料

Appendices

Place de Rimbaud
ランボー広場 BBSログ 2 - 2003年6月8日~7月25日

■ Enfance 第 節 考察
aube at 6/8(日) 19:28:26 No.paroparo-20030608191704

第3節目では、また場面が急に変わって、いろいろな女性達が出てきます。
女性達ばかりで、男性が一人も出てきません。
personnes doucement malheureuses
すごく不幸そうには見えないけれど、本当は生活にうんざりしている人々なのかもしれません。
しかし、続く、
Quel ennui
で、ランボーから見て彼女達が決して幸せにはみえなかったのでしょう。

最後の l'heure du <<cher corps>> et <<cher coeur>>

この体と心はランボーのものでしょうか。
愛しい体と、心の時が来てどうなったのでしょう。

■>第3節
Parolemerde2001 at 6/9(月) 00:05:01 No.paroparo-20030609000422

この第3節は、なんか変ですよね。
その前に、最後のうんざりの行は、改行され、行頭も下げてあるので、実は第4節なのだと思います。

テキスト上の疑問点を、写真版でチェックしました。
まず、海の側のテラスの行末のセミコロンがコロンかなと考えたことがあります。
そこにいろんな女性が集まっている。そして、説明が続きます。
まあ、ヒエロニムス・ボッスの絵のようなイメージです。
でも、実際に見ると、明らかにセミコロンでした。
それから、<<cher corps>> <<cher coeur>> のくくりは“ ”でした。

宝石というのは、女性の比喩でしょう。
他の詩人で同様の使い方をしているのを見ました。
でも、誰の何の詩だったのかは、忘れてしまいました。
それにしても、よく解からない組合せです。
jeunes meres et grandes soeurs は、巡礼という言葉があるので、私は修道女と訳しました。
しかし、この頃、ルルドの泉の巡礼が流行していたことを考えると、若い母親と姉達の方が適当かも知れませんね。再考します。
これらの女性達は、asservies なのでしょう。
それが、支配者だったり、神であったり、主人であったりというだけで。
最後の外国の少女となんとなく不幸な人は、さらにボケていますが…
生活には困らないけれど、精神的には不幸な女たちなのでしょう。
personnes は、ここでは女性のことなのでしょうか。
それとも、単純に人々のことなのでしょうか。
そして、personnes 以外は、何で女だけなのでしょうか。
主のいないハーレムのようでもあります。
幼・少年期のランボーにとって女性は asservies だったのでしょうか。
ランボーの幼年期に父が去っていったことも関係しているのでしょうか。
前の1、2節に比べて、寄せ集めに見えます。
最後の、「なんて退屈…」という言葉も、誰のことなのか判りません。
詩の流れにそって読めば、第3節の女達と考えられます。
しかし、単数で示された心と体は、この第1部全体のこととも取れます。
ランボー自身とも取れます。ただ、cher とあるので、考えにくいかなとは思います。

■>>第3節
aube at 6/12(木) 01:30:57 No.paroparo-20030612012813

ランボー少年にとって、当時の女性達は asservies に見えたのかもしれません。
やはり、母親の影響が大きいのではないでしょうか。
神への信仰にがんじがらめになっている母親が asservies に見えたのではないでしょうか。
好きなときに家に帰ってきては、またふらりと出て行ってしばらく帰ってこない、そして挙句の果てに、家族を捨てて去って行った父親のことも関係しているように、私も思いました。自由気ままな父親(男)に比べて、家や土地、神にしがみついている母親(女)、ランボーの母方の家系は、酒や放浪で身を持ち崩した男達がいましたね。
それに比べて、やはり妻である女性は asservies のような存在だったのではないでしょうか。
なんとなく、ランボーを取り巻く環境が影響しているような気がします。
だとすると、ここの節の登場人物がみな女性であることもわかるような気がするのですが・・。
女性は何かにしがみつかなければ生きていけないという、ちょっとしたランボーの皮肉も含まれているのでしょうか、それとも同情なのでしょうか。
それが asservies なのかもしれません。

なんて退屈・・はランボーが彼女らを見て言ったことなのかもしれないし、パロさんがおっしゃるように、第三節の女達が口にしたのかもしれません。
いろいろな可能性が考えられますね。

続きをまた書きますね。

■第4節
aube at 6/12(木) 01:57:53 No.paroparo-20030612015649

l'heure du <<cher corps>> et <<cher coeur>>

は単数形なので、誰か特定の人物というより、第1部全体と考えるのが自然ですね。
ランボー自身だとすると、かなりあぶないですね。(笑)
でも言いたいことはちょっとわかりません。

>最後のうんざりの行は、改行され、行頭も下げてあるので、実は第4節なのだと思います。

確かにそうですね。
失礼しました。

第4節の<<>>は手書きの原稿の写真版では“”になっているのですね。
違いに意味はあるのでしょうか・・。
ランボーがわざわざ別の形式をとっているのがなぜかわかりません。

■ Enfance 第2章 第1節
aube at 6/12(木) 02:02:22 No.paroparo-20030612015840

C'est elle, la petite morte, derriere les rosiers. -La jeune maman
trepassee descend le perron -La caleche du cousin crie sur le sable -Le
petit frere -(il est aux Indes !) la, devant le couchant, sur le pre d'oeillets.-
Les vieux qu'on a enterres tout droits dans le rempart aux giroflees.

彼女だ、死んだ小さな女の子だ、バラの茂みの後ろにいるのは ‐死んだ若い母親が
玄関の階段を降りる ‐いとこの四輪馬車が砂地の上で軋んだ‐
弟は ‐(彼はインドにいる!)あそこだ、夕日の前の、なでしこ畑の上だ‐
ニオイアラセイトウが茂る城壁の中にまっすぐ埋葬された老人達。

(訳 オーブ 11. juin 2003)

■疑問
オーブ at 6/13(金) 06:05:21 No.paroparo-20030613055309

Enfanceとは関係ないことなのですが・・。
ジャンコラ氏編の本と、プレイヤッド版では、掲載されている詩の順序が少し違うようなので疑問に思いました。

例えば初期の作品、Les Etrennes des orphelinsから始まっているのですが、途中から変わっています。
でもたいしたことはないです。
ジャンコラ氏は製作年順に載せていると思うのですが、プレイヤッド版は何を基準にしているのでしょうか。
ちなみに粟津氏翻訳のランボー全詩もプレイヤッド版と同じ順序でした。
もしご存知でしたら教えてください。

あ、それと Album zutique とはなんのことでしょうか?

急ぎではありませんのでお時間のあるときでいいので、よろしくお願いします。m(__)m

■疑問 続き
オーブ at 6/13(金) 06:17:40 No.paroparo-20030613061046

イリュミナシオンも最後の方、ちょっと違っていました。
これはジャンコラ氏がどうしたことか、製作年順にしていないためと思われます。
頭がこんがらがってきました。

■ Enfance 第2章1節 考察
オーブ at 6/14(土) 00:11:52 No.paroparo-20030614000802

これはランボーの空想上の家族ですね。
「死んだ小さな女の子」は乳飲み子で死んだランボーの妹と考えるのが一般的なようですね。
そのほか、現実世界では兄が一人で、弟はいません。
若くして亡くなった母親は、現実の母親とは対照的なイメージです。
ここにでてくる「いとこ」は何かの例えでしょうか。

そして最後の部分はなぞです。
Les vieux qu'on a enterres tout droits dans le rempart aux giroflees.
私はそのまま「まっすぐ」と訳しましたが、パロさんが訳されたように、「立っている」でいっそう状態がわかりやすくなります。
埋葬されているのが城壁の中だから、自ずと立ったような格好になりますね。
この老人達は一体だれなのでしょう?

■母親について
Parolemerde2001 at 6/14(土) 23:22:12 No.paroparo-20030614232032

ランボーと母親の関係も、厳しい母親と反抗する息子と言い切れるのか、特に、後期韻文詩篇の「思い出」を読むと不思議な気がします。
この詩では、夫の太陽に去られた妻の川のやるせない情念が描かれています。
そして、勉強する子供たちの側に頑なに立ち尽くす母親、でも、子供は、母親の目(水の目)の中で弄ばれ、鎖に繋がれたままです。
つまり、ここでは、太陽に支配され捨てられた川という妻が母親になり、その川の渦(水の目)から出られない小舟のランボーも、やはり asservie なのです。

若い母親は、他の母ではなく、ランボーのほんとに幼い頃、まだ、父が帰ってきた頃、あるいは帰る希望を母が持っていた頃のヴィタリーのことのような気がします。
当時の女性、とくにブルジョワの女性は、ヴィタリーの家も地主でしたし…
必ずしも、自分の手で子供を育てていません。
もちろん、ヴィタリーの兄弟が家の仕事に身を入れなかったために、生活上の制約もあったとは思いますが、教育ママになる前は、育児にもそれなりに熱心な母親だったのではと思います。

でも、その母親は、夫に捨てられ、厳しく頑なな母に替わってしまいます。
ランボーの記憶にかすかに残っている優しい母はその時に死んでしまったのでしょう。
玄関前の石段を下りるはの、帰ってこない夫を迎えに出てみたのでしょうか…
ランボーが、見者の錯乱の中で retrouver するのは、海 mere であり、太陽ではありません。

■テキストの順序
Parolemerde2001 at 6/15(日) 00:33:22 No.paroparo-20030615003016

テキストの順序は、基本的には年代順になっていると思います。
でも、実際に制作順序がよく判らなかったり、手書きの原稿が紛失したり、あるいは、新しい事実が見つかったりして(最大の事柄はラコストの筆跡鑑定でしょうか)少しずつ直されてきたようです。
ですから、プレイヤッド版は、それ以前の全集などを参考にして、一部の順序を直したものと思われます。

イリュミナスィオンに関しては、今のジャンコラ氏編テクスチュエル版が一般的な順序だと思います。
ブリュネル氏編ポショテク版も同じ順序です。
これは、原稿に打たれた番号からの推定の順序ですが、一部、紛失した原稿もあります。
最初の頃は、不明な点も多かったようで、今の順序ではない部分もあります。

韻文詩に関しては、ポショテク版がヴァリアントもそのままの形で載せてあり、はっきりと時期が判るものは、それぞれの時期に分けて掲載しています。
例えば、オフェーリアは、バンヴィル宛、イザンバール宛、ドムニーの詩帳と、それぞれの時期に分けて載せています。
ちょっと読みにくい反面、創作の流れは掴みやすいです。
テクスチュエル版は、一番新しい出版なので信頼性が高い反面、決定稿を年代順に並べてあるため、確かにその時に清書され完成したのですが、始めに書いた時期が判りにくくなっています。
母音は1872-1873の詩の中に分類されています。
でも、ヴェルレーヌの筆写原稿があるという点からは、もっと古いかも知れません。
ジャンコラ氏の推定年代は hiver 1871-1872 となっています。

Album Zutique は、パリに出たランボーが、ヴェルレーヌが参加していた文学サークルに、参加して、そのサークルの雑記詩帳?に詩を書きました。
この詩帳のことです。

■母親について
オーブ at 6/15(日) 21:43:47 No.paroparo-20030615213947

まず、母親について書きたいと思います。

確かにランボーの母、ヴィタリーは子ども達の教育などにおいて、行き過ぎてしまったところがあるとは思いますが、ヴィタリーの境遇を考えると、決して幸せではなかったので、心を閉ざしてしまったのはわかるような気がします。

ジャンコラ氏の伝記には、ランボーの生まれた時代は決して赤ん坊の誕生は祝福されるものではなかったとありました。
そんな中、ヴィタリーはアルチュール達の誕生を心待ちにして、生まれてからもよく面倒を見ていたようだし、乳飲み子が死んだときもかなり落ち込んでいたようなので、私も、ヴィタリーは決して悪い母親ではなかったんだ、と思いました。
当時の風習で、乳飲み子を乳母に預けるというのはあったようですが・・。

ドラエーが、アルチュールの爪は清潔で、母親がよくかまっているのがわかった、と言うようなことを言っているので、子ども達の面倒をよくみていたところまではよかったのですけどね。

やはり、夫とうまくいかなくなって、夫が去ってからよけいに心を閉ざしてしまったのでしょうね。
子ども達には自分を置いて、去って行って欲しくなかったから閉じた生活をしていたのでしょうか。
夫がまだ帰ってきていたときは、ヴィタリーにも笑顔があったようです。
夫が去っていく時、泣きじゃくっていたとジャンコラ氏は書いています。
そんな母親が記憶の中にかすかに残っていても不思議ではありませんね。

夫が永遠に去ると同時に、やさしかった母も死んでしまったのですね。

■テキストの順序について
オーブ at 6/15(日) 21:58:55 No.paroparo-20030615214443

どうもありがとうございました。
よくわかりました。

一番最新ということで、テクスチュアル版が信頼性が高いのですね。
ランボーはあまり日付をつけなかったのですね。

Album Zutique についてもどうもありがとうございました。
私のもっている本にも解説が載っていました。(--;

■エデンの園はエチオピア?
Parolemerde2001 at 6/16(月) 02:29:20 No.paroparo-20030616022400

聖書のエデンの園に関しては、中東という歴史解析がありますが、人類は、アフリカで発祥したというのが学問的な定説となっています。
6月12日の日経新聞に、16万年前のホモサピエンス最古の化石がエチオピアで発見されたと出ていました。
ランボーは、夢見たエデンの園に、実際に行ったことになるのでしょうか?

■>第1部4節+第2部1節
Parolemerde2001 at 6/16(月) 07:47:34 No.paroparo-20030616074629

「少年時代」は、それぞれ最後の1節あるいは1行が、次の部に移行する出口の役目をしている構成です。
そう考えると、この第1部の最後の行は、第1部全体、つまり、おとぎ話の世界に対する言葉と取るのが自然な気がします。

第2部1節の従兄弟(いとこ)は、具体的に誰なのか、判りません。
そして、この砂の上はどこのイメージなのでしょうか。
アフリカや中東の砂漠がイメージされているのでしょうか。
この行は、caleche, cousin, crie と音の流れを作り出しているように思います。
充分な理由にはならないでしょうが。
おそらくは、砂漠の地で四輪馬車に乗れる地位にいる従兄弟を空想しているのでしょう。
最後の1行は、やはり意味が良く解かりません。
直訳すれば、真っ直ぐに埋葬された、だと思います。
ただ、動詞が現在完了形であり、今までその状態が続いているととれることと、それまでが、今(幻覚で?)見えること、聞こえることを書いているので、今でも、真っ直ぐに立ち尽くしいてるというイメージに取りました。
人柱的なイメージなのでしょうか。
それとも、捕虜となり虐殺された人たちなのでしょうか。
不明です。

■人類発祥の地
オーブ at 6/17(火) 03:11:15 No.paroparo-20030617030726

私も人類発祥の地はアフリカだと思っていました。
聖書では中東になっているんですね。

>6月12日の日経新聞に、16万年前のホモサピエンス最古の化石がエチオピアで発見されたと出ていました。

ということは、今のところ人類発祥の地はエチオピアなのですね。
16万年前って想像できないくらいの長い月日ですね・・。
ではランボーは憧れの地に行ったことになりますね。

■ランボーのいとこ
オーブ at 6/17(火) 04:15:54 No.paroparo-20030617041421

ランボーにはいとこがいたようです。
父には3人の兄姉がいたそうですが、一度もシャルルビルに来たことがなく、会った事がないそうなので、母方のいとこだと思われます。
アルチュールとフレデリックの聖体拝領のときにお祝いに来たことがジャンコラ氏の伝記にかいてありました、でも、アルチュールとこれらのいとこの直接的なエピソードはありません。
この詩で出てくるいとこは、実在のいとこというより、空想の何かのおきかえなのかもしれません。

塀の中の老人達は少し不気味ですね。
私もこれはよくわかりませんでした。

■マルハナバチ
オーブ at 6/17(火) 04:20:46 No.paroparo-20030617041608

この前テレビを見ていたら、バガテル園でバラのコンクールが開かれていると言っていました。
残念ながらバガテル園はパリではありませんので、行くことができません。
バラの映像が写って、大きなハチが蜜を吸っていました。
mari が、「あれがマルハナバチだよ」と教えてくれました。
大きくて丸く全体的に黒いハチで、私は初めてみました。
クマバチよりも大きかったと思います。
実際写真を撮るのは勇気が要りそうですね・・。

■ Enfance 第2章2節
オーブ at 6/17(火) 04:26:31 No.paroparo-20030617042352

L'essaim des feuilles d'or entoure la maison du gerneral. Ils sont dans le midi. -On suit la route rouge pour arriver a l'auberge vide. Le Chateau est a vendre; les persiennes sont detachees. -Le cure aura emporte la clef de l'eglise. -Autour du parc, les loges des gardes sont inhabitees.....Les palissades sont si hautes qu'on ne voit que les cimes bruissantes.D'ailleurs il n'y a rien a voir la-dedans.

黄金の葉の群れは、大佐の家を取り囲む、住人達は南方にいる。
- 赤い道をたどっていくと、無人の宿屋にたどり着く。
館は売りに出されている。よろい戸ははずされたままだ -司祭が
教会の鍵を持っていったのだろう- 公園の周りの番人の小屋は誰もいない、、、
塀がとても高いのでざわめく梢しか見えない。とは言っても、
その中には見るべきものは何もないのだが。

(訳 オーブ)
■ Enfance 第2章2節 考察

オーブ at 6/17(火) 04:35:43 No.paroparo-20030617043211

不思議の世界に迷い込んだようです。
この世界には人の気配がありません。
さびしく、神秘的です。
こういう感覚は特に幼い頃にあったと思います。
無人の家になんとなく興味を引かれるというか・・。
人の生活の気配がないと、不思議の世界への入り口のような気がするからでしょうか。

■従兄弟とニオイアラセイトウ
Parolemerde2001 at 6/17(火) 23:10:17 No.paroparo-20030617230900

私は、この従兄弟は父の方の従兄弟だと考えています。
というのは、第2節が軍人の家で始まるからです。
たがら、おそらくは中東からアフリカにかけての砂漠地帯をイメージしたのではないかと。
まあ、具体的な根拠は何も無いのですが…。
ニオイアラセイトウが茂る城壁は、ドラエーによるとシャルルヴィルに実在するそうです。
でも、老人は中に立ったまま埋葬されているのかは判りません。
現実でもあり、空想でもあるのかも知れません。
まあ、子供時代の古い廃家がオバケ屋敷となったようなものなのかも…。
ニオイアラセイトウはこのサイトに出ています。
http://www.aujardin.info/plantes/giroflee.php

日本で紹介されているものは、黄色の花が多いようです。
英語では、wallflower なので、城壁などに茂り花を咲かせるのでしょう。
良い香りがすると、書いてありました。
ヨーロッパ原産で、ギリシア、エーゲ海地方で土壁などに自生しているそうです。
熱さには弱い植物だそうです。

■軍人
Parolemerde2001 at 6/17(火) 23:16:07 No.paroparo-20030617231030

第2節に行って、軍人 general の位が良く判りません。
現在の陸軍では、general d'armee が大将、general de corps d'armee が中将と、辞書には載っています。
将軍と訳すと、征夷大将軍のような最上位の意味になってしまいますか?
大将というと、お山の大将的に聞こえるし…。
大佐は辞書では、colonel となっていますが、ランボーの時代は、どうだったのでしょう。
パリの軍事博物館などで、正しい意味が判りますか?
ところで、ランボーの父は、capitaine Rimbaud とジャンコラ氏の伝記には書いてあります。
海軍なら艦長ですが、おそらく陸軍で大尉という位なのでしょうか。

■教会の鍵
Parolemerde2001 at 6/18(水) 00:48:11 No.paroparo-20030618004721

司祭が教会の鍵を持っていったのだろう
という部分は、どのように読みましたか?
私は、いわゆる鍵穴に刺す鍵ではなく、外付けの鍵、南京錠とか巾着錠とか呼ばれている扉の外に付ける鍵が、付いていないという意味に取りましたが…。
つまり、開けっ放しか、誰でも開けられる状態になっているという意味です。
錠穴の鍵が無く、扉が閉まったままとも考えられるのですが、その場合、司祭が鍵を持っていったという言い方をするのか、疑問です。
入りたい、見たいところが閉まっていて、入りたくないところが開いているのでしょうか。
あるいは、本来は開いているべき教会も、閉まったままという意味なのでしょうか?

■?幼年時代
Parolemerde2001 at 6/18(水) 01:20:34 No.paroparo-20030618011924

この「少年時代」の I から IV までは、幾つくらいの体験をもとにして書かれたのでしょうか。
「七歳の詩人たち」ではありませんが、そんな年齢のような気がします。
自分の体験からの勝手な想像です。
4歳くらいから7歳くらいまでのことは、奇妙に覚えています。
自分で行動できるようになり、自我が形成されていく過程だからでしょうか。
それ以降は、だんだん慣れてきて、驚きも無くなりますし、認識能力が増えるので、神秘的な感情が薄れたように思い出します。
この第2節の情景を普仏戦争と結びつける読み方もあります。
その時の体験が、思い出すきっかけになったのかも知れませんが、もともとの映像は、もっと幼い時の体験のように思います。
塀が高いのは、自分の背が低いからとも思われます。
もう少し大きくなれば、管理者がいないのだから、塀を乗り越えるとか、何処か壊して入れるところを探すとかすると思います。

この大将の家は、どこかランボーの父の不在を連想させますね。

■少年時代、テクスチュエル版について
Parolemerde2001 at 6/18(水) 02:06:47 No.paroparo-20030618020551

第1節:ジャンコラ氏の注では、tout droits は rigides の意味で、verticalement ではないのでは、と書かれていますが、続く、giroflees の説明は、19世紀の辞書が引用されていて、要するに、古い城壁や塔に生える十字花科の植物の一種とあります。
十字花科って、フランス語では十字架科なのですね。crucifieres です。
こう考えると、磔刑ですから、真っ直ぐに立ったままと取れるのですが…

第2節:ジャンコラ氏編のテクスチュエル版では、a l'auberge. Vide. となっていますね。
この部分は、手書原稿写真版でみると、紙の右端、つまり行末で、私には、a l'auberge. といったん書いたあとに、vide. を書き足したように見えます。

■従兄弟とニオイアラセイトウ
オーブ at 6/18(水) 06:13:38 No.paroparo-20030618060455

父方のいとこと会ったことがあるかどうか定かではありませんが、実際会ったことがないいとこを空想して書いたともとれますね。
ジャンコラ氏の伝記にも父方の家族についてはほとんど書かれていません。
詳しくはわかっていないのでしょうね。
ただフレデリックの父親(ランボーから見て祖父)も家庭を捨てて去っていったようです。
父方の親族は、中東、もしくはアフリカくらい遠い存在ということでしょうか・・。

ニオイアラセイトウって変わった花ですね。
名前も初めて聞きました。
シャルルビルに実際あったのですね。
老人はランボーの空想が織り込まれているのでしょうか。

■ general
オーブ at 6/18(水) 06:43:55 No.paroparo-20030618061839

ご指摘ありがとうございました。
うっかりしていたようです。
私も軍隊の位置づけが良くわかりませんでした。
generalは辞書には大将、将軍と載っていましたが、大将だと私は武○鉄やか、がき大将を想像してしまい、将軍だと暴れん○将軍を想像してしまいました。(笑)
でもここは将軍、と訳した方がいいですね。

Le Petit Robertで調べたところ、generalと capitaineはほぼ同じ意味のようで、軍隊の中で一番上の位のようです。generalに、Celui qui commande en chef une armee, une unite militaire importante. と載っていました。
colonelは大佐で、officierは仕官、将校となっていました。
しかし位置づけがちょっとわかりません。

■>教会の鍵
オーブ at 6/18(水) 06:57:54 No.paroparo-20030618064953

私は鍵穴に刺す鍵を想像していました。
それと、時代物の映画などでよく見る大きな鍵を想像していました。
博物館で実際大きな鍵が展示されているのを見たことがありますが、教会のかどうかはちょっと覚えていません。
お城だったかも・・?
そして、この教会はもうずっと閉まったままなのではないかと思いました。
ちょっとコケが生えているようなそんな感じです。
人の気配が消えてもう何年もたっているような・・。
司祭がどこに行ったのかはわかりません。
しかし、当時、教会が打ち捨てられることがあったのかどうかそれがちょっと疑問です。
何らかの理由で放置されることがあったのでしょうか・・。
無人の村だとありえるかもしれませんが。

■空き家
オーブ at 6/18(水) 07:16:03 No.paroparo-20030618065934

私もランボーがかなり幼い時の記憶をたどって書いたのでは、と思います。
私の記憶でも、小学校に上がる前くらいから、小学2、3年くらいまでこういうのがあったように思います。
当時家の近所に打ち捨てられた空き家が何件か並んでいました。
庭はくさぼうぼうで、窓ガラスも割れてとても人が住めるような状態ではなかったので、そのまま打ち捨てられていました。
空き家が取り壊されたのは、それから何年も後のことです。
私が物心ついたときから、そこはずっと空き家だったので何年も打ち捨てられた状態であったと思います。
入ろうと思えば入れたのですが、怖くて入れなかった記憶があります。
でも入った自分を密かに想像したりしていました。
とてもよく覚えています。
後に浮浪者が入ると言う理由で、窓やドア全部に板が貼られましたが。

いまだと、空き家を見てもそのときは何かを感じても、
ずっと覚えていることってほぼありません■空き家 (笑)

>塀が高いのは、自分の背が低いからとも思われます。

これはありそうです。
大人になって、十数年ぶりに小学校を訪ねたとき、高いと感じた鉄棒が案外低かったのだと
感じたことがあります。

この無人の大将の家は父の不在を暗示していますね。

■テクスチュアル版
オーブ at 6/18(水) 07:31:16 No.paroparo-20030618072112

>第1節:ジャンコラ氏の注では、tout droits は rigides の意味で、verticalement ではないのでは、と書かれていますが。

ほんとですね。でも壁の中に埋葬されているので、自ずと立った状態になりませんか?
それにニオイアラセイトウは十字架を暗示しているのですよね。
rigides、硬直していると言う意味でジャンコラ氏はとっているのでしょうか。

a l'auberge. Vide.

そうですね。テクスチュアル版ではこうなっています。
プレイヤッド版は l'auberge の後にポワンがありません。
訳すときは、続けて訳すようにしたのですが・・。
無人ということを強調するためにランボーが後から書き足したのでしょうか。

■教会と鍵
Parolemerde2001 at 6/18(水) 22:15:48 No.paroparo-20030618221356

教会の鍵は、やっぱり外に付ける大きな閂状の鍵でしょうか。
司祭が、鍵を持っていって、扉は開くのか開かないのか判りませんが、打ち付けられていたりとかして、放棄された状態なのでしょうか。

フランス革命が起こり、王政が否定されました。
王政の背後には、神が存在していました。
王権神授説です。
革命後、「理性の祭典」がフランス中で行われました。
フランス版、文化大革命です。
具体的には、司祭の追放が行われました。
もちろん教会は、特に地方農村では、教育、医療、農業指導、民衆管理などの実際的な役割を果たしてきたました。
当然、教会やそれを支持する人々の反動が起りました。
19世紀は、旧勢力と神 vs ブルジョワジーと理性の戦いの世紀でもありました。
そして、ここに新しい労働者階級と古い農民階級も加わります。

このうち捨てられた教会は、司祭が追放された教会なのでしょうか。
続く公園の管理人は、かっての貴族などの猟場の管理人とも考えられます。
北東フランスは、革新的な地域だったようですが、アルデンヌ県はこの地方の中ではやや保守的な地域だったようです。
でも、これは日本のヨーロッパの歴史の本を調べてみた結果であり、詳しいことは、判りません。

■ Enfance 第2章、第3節と第4節
オーブ at 6/19(木) 06:15:01 No.paroparo-20030619060836

Les pres remontent aux hameaux sans coqs, sans enclumes. L'ecluse est levee.O les calvaires et les moulins du desert, les iles et les meules. Des fleurs magiques bourdonnaient. Les talus le bercaient. Des betes d'une elegance fabuleuse circulaient. Les nuees s'amassaient sur la haute mer faite d'une eternite de chaudes larmes.

草原を上っていくと雄鶏もなく、作業台もない小集落がある。
水門は上げられている。おお、十字架の立つ丘と砂漠の風車、数々の島と積み上げられたわら。
魔法の花たちがざわざわ鳴った。斜面が「彼」を揺すった。
おとぎばなしのような優美な獣たちが歩き回っている。
永遠の熱い涙でできた沖合いに厚い雲が湧き上がった。

■ Enfance 第2章、第3節と第4節 考察
オーブ at 6/19(木) 06:31:58 No.paroparo-20030619061624

ここもやはり無人ですね。
雄鶏も、作業台(作業現場)もない小集落です。
ということは人が生活している気配はありません。
L'écluse est levée.

水門は上げられている、と直訳しましたが、水門の仕組みがわかりません。
水門が上げられているということは、使われていないということなのでしょうか。
十字架の立つ丘と砂漠の風車はランボーが何を想像したのでしょう・・。
ここでも砂漠が出てきますね。
いとこがいる砂漠と同じところでしょうか。

最後は夢のように美しい場面ですね。
この「彼」はランボーだと思いました。
魔法の花々がざわめいて、ランボー少年が目覚めます。
草原か、お花畑で眠り込んでいたのでしょうか。
斜面が「彼」をゆすったのは、花々がさわさわ揺れて、ランボーがそう感じたのでしょうね。
優美な獣たちが歩き回っているのは何の例えか考えてみましたが、ちょっとわかりません。
放牧されている羊たちでしょうか・・。
ランボーはまだ夢の世界にいるのかもしれません。

最後の節ではランボーは泣いていたのでしょうか?
涙で目が曇っていく様子なのかな、と思いました。

■第3節+第4節
Parolemerde2001 at 6/20(金) 01:19:11 No.paroparo-20030620011805

第3節は、無人の小さな部落、今なら廃村と言った方が良いような気もします。
水門は、閉めて水位を上げることを順次繰り返していけば、舟を川上に進めることができます。
もちろん、ごく緩やかな逆斜面です。
この部落は、草原を上がって行くのですから、少し高い所なのでしょう。
水門が上げられているからには、そこに行く船は無いという意味なのでしょう。
つまり、人が生活していないということだと思います。
放って置かれた干草の山が島に見えるのは解かりますが、荒野(砂漠)の風車と十字架は、どちらが現実なのか迷います。
逆に十字架の並ぶ小さな墓地を、砂漠の風車に見立てているようにも思えます。
moulin は水車とも取れますが、ここでは形から風車でしょう。
シャルルヴィルのムーズ川の moulin は、大きな水車(建物)ですね。
幼い日の童話や絵本の白昼夢のように見えます。

第4節は、なぜアンダーラインの le なのでしょうか。
私も、ランボーのことだと思うのですが、別の自分として書いているのでしょう。
まだ幼い少年は、ひょっとして背の高い草花よりも低い位置なのかも知れません。
あるいは、斜面に横になっているのかも知れません。
優雅な獣(動物)は、家畜であれば、やはり羊ではないかと思いますが、むしろ、花に来る蝶や蜂、いずれも色が鮮やかな、のような気がします。
たくさん群れ飛んでいるのなら、circulair という言葉が合っていると思います。
でも、これは答えの無い世界だと思います。
私は草原に横になって上を見ている、つまり花や蝶が上にあり、さらにその上に空がある、
そして目に涙が海のように溢れて、滲んだ空に白い雲、たぶん初夏の雲が湧き上がっている、
そういう情景を思い浮かべました。
この雲は、やがて空を覆い、夕立になるのでしょうか… それは分からないですね。
でも、永遠に残ったのは体験された映像(思い出)であり、実際のシーンには終りが来ます。
そんなふうに読みました。

第1節と第2節は、ティレが多用されていて、イメージが飛んでいます。
断片的な映像を思い出しているのでしょう。
第3節と第4節は、それぞれまとまったシーンのように思えます。

■第3節+第4節
オーブ at 6/23(月) 04:29:44 No.paroparo-20030623042829

優美な獣は betes になっています。
だから昆虫なども含まれるわけですね。
蝶などの色鮮やかな虫たちが飛び回っている、というのも考えられますね。
想像の世界なので、自分が感じた動物を当てはめていいわけですが、「おとぎばなしのような優美な」という説明があることから、色鮮やかな蝶というのが一番近いかもしれません。

荒れ野(砂漠)の風車と十字架、気になりました。
私も水車ではなく、風車とイメージしました。

■ Enfance 第3章
オーブ at 6/25(水) 19:16:51 No.paroparo-20030625191501

Au bois il y a un oiseau, son chant vous arrete et vous fait rougir.
Il y a une horloge qui ne sonne pas.
Il y a une fondriere avec un nid de betes blanches.
Il y a une cathedrale qui descend et un lac qui monte.
Il y a une petite voiture abandonnee dans le taillis, ou qui descend le sentier en courant, enrubannee.
Il y une troupe de petits comediens en costumes, apercus sur la route a travers la lisiere du bois.
Il y a enfin, quand l'on a faim et soif,quelqu'un qui vous chasse.

森の中に一羽の鳥がいる。その歌が君の足を止め、君の頬を赤らめさせる。
時を告げない時計がある。
白い動物の巣があるくぼ地がある。
降りてゆく聖堂と上る湖がある。
雑木林の中に打ち捨てられた小さな車がある。
なのに、それはりぼんで飾られ小道を駆け下りる。
森のはずれを横切った道の上に見える、
衣装をまとった小さな役者達の一座がある。
ついにおなかがすいて喉が渇いた時、
誰かが君を追い立てる。

(訳 オーブ)

■ Enfance 解読 vous とon
オーブ at 6/25(水) 19:44:21 No.paroparo-20030625191823

まずは登場人物について・・。

Au bois il y a un oiseau, son chant vous arrete et vous fait rougir

ここではvousが使われています。私は丁寧な「あなた」というより、複数の 「君たち」のほうかなと思いました。
パロさんの解説にもありましたが、女の子と一緒だったのかもしれません。
vous fait rougir
があるので、そう思いました。

Il y a enfin, quand l'on a faim et soif, quelqu'un qui vous chasse.

最後の部分ではon a faim et soifで、on が使われています。
なぜ、vous avez faim....としなかったのか考えてみました。
そして、このonは、「彼ら」ではなく、「ぼくたち」ととるほうが、自然に思われました。
ここに出てくる少年はランボーの分身なのでは。
始めは vous を使い、語り手に徹していた(ように見えた)ランボーが、最後にはこの少年に同化している。
この vous は自分も含まれているよ、と何気なくアピールしているかのようです。
ショートフィルムか、ちょっとしたお芝居のように思えました。

しかし、訳にすると難しいですね。
読む人によっては、必ずしもそういう考えでない人もいると思います。
少年は一人で森をさまよっていて、「あなた」ととる人がいるかもしれないし・・。
実際、私もその可能性もあると考えています。
「あなた」とすると、ちょっと硬くなると思い、「君」と訳し、自分の考えはできるだけ投影せずに、そのまま訳すようにこころがけました。

パロさんはどう読まれましたか?

■ Enfance 第3章 考察
オーブ at 6/25(水) 20:11:47 No.paroparo-20030625194701

ここのシーンも無人ですね。

Il y a une horloge qui ne sonne pas.

時計を管理する人がいないのですね。
人の気配はないように感じました。

Il y a une fondriere avec un nid de betes blanches.
......
Il y a une petite voiture abandonnee dans le taillis, ou qui descend le sentier en courant, enrubannee.

白い動物と打ち捨てられ、りぼんで飾られた小さな車、
童話の世界のようですね。
エロスとロジックについて、もう少し詳しく教えてください。
具体的な何かの例えなのでしょうか。

Il y une troupe de petits comediens en costumes, apercus sur la route a travers la lisiere du bois.

しかし、森のはずれに小人の役者の一座がふいに現れます。
パロさんの解説では、「大人が作った子供の世界」とありましたね。
ではここの森は、「子供の世界」または「子供の想像の世界」なのでしょうか。
小人は子供のいいかえで、「演技をする子供」、母の前でいい子を演じていたランボー少年のようですね。
考えすぎでしょうか・・。

そして、おなかがすいて、のどが渇いたとき、「君」は誰かに追い立てられます。
「大人の世界」へと追い立てられたのかもしれません。
少年が大人になるときなのでしょうか。

■ C'est cher !
Parolemerde2001 at 6/26(木) 09:53:55 No.paroparo-20030626094733

第1部の最終行のことです。
だいぶ前から考えていたのですが、これは、ひょとして皮肉なのかなと…。
つまり、お高い世界というような…
cher は、愛しいだけでなく、貴重な、高いという意味でも使われますよね。

少し前に、銀座でフランスのビスクドールをまた見ました。
少年のビスクドールが2体ありました。
いずれも100万円強でした。
まあ、日本だから高いとも言えますが、でも、当時のフランスでも安い物では無かったでしょう。
お伽話の高貴な王子も、森の中の秘密の王女も、王侯貴族の女達も、お高い世界だったのでは…

■「渇きの喜劇」
Parolemerde2001 at 6/26(木) 10:45:28 No.paroparo-20030626104358

「渇きの喜劇」をアップしました。
「回転木馬」などの校正は、もう少しお待ちください。

■>Enfance 第三章 考察
Parolemerde2001 at 6/26(木) 13:41:35 No.paroparo-20030626133441

オーブさん、こんにちは。

第3部(章)まで来ましたね。
ここは、謎ですね。というか、ランボー個人の体験が鍵となっている部分は、結局、解からない。
第2部・第3節のように。

私の訳も、サイトを始めた頃の前の訳であり、まだ、最初の訳が引きずられているので、オーブさんの読みを参考に手を入れたいと考えています

まず、テキストのことですが、なぜかジャンコラ氏は、最終行を途中で改行し、頭下げにしています。
しかし、手書き原稿写真版で見ると、ここは行末で折り返した一行のように見えます。

それでは、読みに入ります。
ここの vous, on は、第2部の第4節で、le の表現方法を受け継いでいるように思えます。
見者の手紙を思い出させますが、単純に、幼・少年時代の自己を別の人格と見て表現しているとも考えられます。
最終行の l'on は、quelqu'un を引き出すためなのでしょうか、たとえば、on y va という言い方、これは日本語の主語の無い表現と似ていると思います。
ここでは、定冠詞が付いています。音の関係でしょうか。
vous ではなく、l'on にしたのは、感覚的に「お腹がすいた」という表現なのでしょうか。
感覚を優先させるという、日本語の主語無しの表現のような…。

この第3部は、感覚的には解かっても、具体的には解からないこともあります。
ランボー個人の体験の個別性でしょうか。
降りるカテドラルと昇る湖は、体験的に理解しました。
山にハイキングに行くと、町は降りて見えるのに、山の上(中腹)にある湖(池)は、昇って見えます。
ロジックに反している不思議な印象を持ったことを覚えています。
時計は時を告げる道具なのに、鳴らないのですからオブジェですね。
これは、今では一般的なイメージです…。
逆に、捨てられて動かないはずの車が、生きているように、リボンを付けて走っていきます。
実際は、リボンのついたまま捨てられた玩具、例えば、積み上げられたゴミとかの上にが、何かのはずみで走り落ちたのでしょう。

さて、話はエロスに移ります。
この車 voiture ですが、この頃はまだ自動車はないので、玩具の車としても、馬車とか乳母車とかだと思います。
馬車がリボンを付けておしゃれをして走っていくのは、シンデレラですね。
さらに、19世紀のフランス小説に出てきますが、 馬車は男女の秘め事、つまり不倫の場所でもありました。
もちろん、乳母車にもエロスの匂いは付いています。
白い動物は、すぐに女性、メスを連想させます。
たとえば、シロヘビの寓話とか、鶴のお伽話とか、白い色自身が女性の体を連想させます。
動物の白い毛は、実は色素が無いのです。
白という色があるわけでは無いのです。
つまり、色素の無い毛が光を乱反射して白く見えるのです。
子供が顔を赤らめるのは、幼いエロスなのでしょう。
4歳から6歳くらいまでの感覚のように思います。

小人は、大人なのに子供の世界を演じます。
だから彼らは、森と外の大人の世界の間にいるのでしょう。
小人の世界を描いた幻想的なモノクロの映画を見ました。
学生の頃で、しかも、既に古い映画でした。
残念ながら、タイトルも監督名も忘れてしまいました。
映画を見ながら、ランボーのこの詩を思い出しました。
確か、サーカスの小人だったように覚えています。
当時のヨーロッパの巡回する小さなサーカスには、こういう出し物が多かったのでしょうか。

子供の頃の森は秘密の幻想の世界でした。
でも、お腹がすいたという具体的な感覚で、外の大人のいる世界に返らなくてはなりません。
具体的に、森の番人などに追い出された体験から、追い出される時間だから、お家に帰ろうという意識になったのかも知れません。

「七歳の詩人たち」にもありますが、ランボーはシャルルヴィルのアパルトマンで、近所の子供たち、女の子たちと遊びました。
母親は喜ばなかったようですが…、そんな、幼い日の秘密の思い出なのでしょう。

■ Vous, on
オーブ at 6/28(土) 21:31:15 No.paroparo-20030628212930

vous, on なのですが、わたしも見者の詩法かな、と思いましたが、この vous、「君」または「君たち」の中に幼い頃の自分が入っているというのをあらわしているのでは、と思いました。
vous avez... にするとそれが読者にはぜんぜんわからないけど、on a ... にすることで。
「ぼくたち」、つまりランボー少年が含まれていることを読者に案じさせるのでは、と考えました。
つまり nous の代わりに使われているととりました。
この on を三人称の「彼ら」とするにはちょっと不自然かな、と。

パロさんがおっしゃるように、on y va や、また on m'a dit... のように はっきりした主語がない、いわゆる日本語に似た表現がありますね。
ただ、on y va の場合だと、やはり「私たち」というのが暗に含まれていて、 on m'a dit だと、「彼ら」または「誰か」といのが暗示されていると思うのです。
il m'a dit や ils m'ont dit と言い換えることもできるからです。

でもあいまいですよね、どういうふうにもとれる。
ランボーは読者を混乱させて喜んでいるのでしょうか。(^^;
ちょっとした遊び心でしょうか。

>実際は、リボンのついたまま捨てられた玩具、例えば、積み上げられたゴミとかの上にが、何かのはずみで走り落ちたのでしょう。

これはランボーの実体験でしょうか。
それが空想の中で重なったのでしょうか。
私はおもちゃの車で、いわゆるミニカーを想像してしまいました。
でもランボーの時代にはありませんね。
馬車でしょうか・・。
それともごみの山の上に捨てられていたベビーカーがなにかのはずみで落ちてきたのを見たのかも。
ベビーカーだとリボンがついていても納得できますね。
それがちょっとおもちゃっぽくみえたのかもしれません。

なるほど、白は女性の言いかえなのですね。
たしかにおとぎばなしでは女性は白い動物に変身していることがあります。

「おなかがすいた」イコール「家に帰る時間」ちょっとわんこのようですね。(笑)
でも幼い子供だとそういう物差しをもっていてもおかしくないですよね。
幼い子供は時を忘れていつまでも遊んでいることがありますから。

ここの場面には幼い頃、女の子たちと遊んだ記憶が結びついているのですね。

すべてが、il y a となっているとても不思議な場面です。

■テキスト
オーブ at 6/28(土) 21:44:13 No.paroparo-20030628213307

>なぜかジャンコラ氏は、最終行を途中で改行し、頭下げにしています。
しかし、手書き原稿写真版で見ると、ここは行末で折り返した一行のように見えます。

確かに、ジャンコラ氏は最終行を途中で改行していますね。
プレイヤッド版は行末で折り返しているようです。
ジャンコラ氏の注に、cette dernier ligne est ecrite en caracteres plus grands sur le manuscrit.
とあるので、ジャンコラ氏的には、それを強調したかったのかも・・。

ここはランボーも強調したかったところでしょうか。
子供のおとぎ話の世界から、大人の世界(現実の世界)に帰らなくてはいけないというか、引き戻されるというか、いづれにしてもちょっと目が覚めるような感じがします。

■ Cher
オーブ at 6/28(土) 21:54:15 No.paroparo-20030628214501

このCherを「高価な」ととると、また違った意味がもてておもしろいです。
そして、ランボーお得意のちょっとしたシニカルさが感じられますね。
当時、高価で大流行していたビスクドールをランボーが見ていてもおかしくはないですよね。
それが、おとぎばなしの王子様、お姫様に見えてしかも高い!!
それに、彼らが退屈そうに見えたのかもしれないし。
ちょっと想像がふくらみました。

■ご無沙汰しています。
shizue at 6/29(日) 00:16:16 No.paroparo-20030629000518

とはいえ、1回も書き込みも何もせず、本当にすみません。
ちゃんと細かに覗かせていただいて、皆様の書き込みを読んで、色々と考えてはいるのですが、どうもまだまだランボーも然り、その他の知識が足りないことを痛感します。

しかし、今在籍しているゼミにてゼミ論をランボーに決めてしまいました。
ので、これから改めて皆様にお世話になると思いますのでよろしくお願いします。

■>テキスト
Parolemerde2001 at 6/29(日) 08:58:01 No.paroparo-20030629085718

これは、私が写真版手書き原稿を見ての判断なのですが、最後の行は、Il y a より2文字分、前に出ています。
むしろ、その上の小人の役者の折り返し2行が、他の行頭よりやや前に見えます。
それ以外の行頭とは、quelqe'un は揃っています。

■気楽に書いてくださいね。
Parolemerde2001 at 6/29(日) 23:01:42 No.paroparo-20030629225627

shizue-san、お久しぶりです。
初めは誰でも知識がありません。
その代わり、自由に見れるという利点もあります。
私もそうだったと思っています。

どんなテーマで研究されますか、ランボーってとっても昔の人ですよね。
今でも、読めるとしたらどうしてなのでしょう。
そんなことも、おもしろいと思っています。

■確かに…
shizue at 6/30(月) 20:03:13 No.paroparo-20030630195124

そう言われてみると、盲点でした。

実のところ、ゼミ論に決めたとは言え、どこに焦点を絞ろうかと迷っていたのです。
生涯か、詩に関してか、「詩との決別」か、ヴェルレーヌとの関係か…。
ゼミの先生がフランス専門の先生なので、かなり突っ込まれてしまいました。
私的には、ランボーと日本の文学との関係を調べてみようかなと思っていたのですが、今はフランス詩法から学ばなければ…なんてまた本借りて独学してます。

アドバイスありがとうございます。
その他良い案ありましたら、お願いします。

■おひさしぶりです
オーブ at 7/1(火) 00:39:08 No.paroparo-20030701002816

shizueさん、ゼミ論をランボーに決めたのですね。
がんばってください。
私はランボーについてまとめをしたことがないので、きっとすごくいいと思いますよ。
何か気づいたことがあったら教えてください。
どんどん書き込んでくださいね。

■>>テキスト
オーブ at 7/1(火) 00:48:17 No.paroparo-20030701004348

>これは、私が写真版手書き原稿を見ての判断なのですが、最後の行は、Il y a より2文字分、前に出ています。

確かにそうですね。ジャンコラ氏は最後の行はほかの行より大きくなっていると注がありましたが、みたところそう変わりませんね。
どうでしょう?微妙に大きいでしょうか。

>むしろ、その上の小人の役者の折り返し2行が、他の行頭よりやや前に見えます。
それ以外の行頭とは、quelqe'un は揃っています。

これはランボーのたくらみでしょうか。

■渇きの喜劇
オーブ at 7/1(火) 01:09:27 No.paroparo-20030701004837

パロさん、渇きの喜劇を拝読しました。
感想が遅くなってごめんなさい。
なんだかおもしろい詩ですね。
でもランボーにとっての渇きとはいったいなんでしょうか。

伝説も絵姿も、
ぼくの渇きを癒さない

水辺の獣も、家畜も、
最後には蝶も!...みんなのどが渇く

(パロさんの訳より拝借しました)

最後の結論は五月の軍旗を連想させます。
ちょっとした死への憧れのような・・。

能天気でおどけた感じのする「ご先祖」と、クールな「ぼく」とのやり取りがおもしろいな、と感じました。
ご先祖は、「ぼく」に対して渇きを癒す方法を提案しているのですね、しかしそれを否定していく。
少し自虐気味になっていますね~。
渇きを癒す方法は夜霧にぬれたすみれの中で死ぬことなのでしょうか。
・・・ってランボー自身が聞いてますね。(^^;

決して愉快ではない内容の詩をコメディタッチで表してみせるところがさすが詩人ですね。

■渇きの喜劇 林檎酒
オーブ at 7/1(火) 01:25:42 No.paroparo-20030701011802

日本でももうおなじみかと思いますが・・。
林檎酒(シードル)はクレープと一緒に食べるとおいしいようです。
クレープやさんには必ずシードルがあります。
グラスではなく素焼きの器に注いでくれました。

■シードル
Parolemerde2001 at 7/2(水) 00:31:07 No.paroparo-20030702002519

シードルは、アルコール度数がビールぐらいだったような。
アルコールなしのもありますよね。
最近は日本でもよく売っていますが、飲む人は知りません。
ところで、日本のサイダーは、どこから来たのでしょう。
ラムネはどうなのだろう。
でも、なぜ素焼きなのだろう。
炭酸が出やすいから?

■フランス詩法
Parolemerde2001 at 7/2(水) 00:51:01 No.paroparo-20030702003204

shizue-san

フランス詩法というのは、韻文詩のスタイルのことですか。
詩法って、私もアレクサンドランの読み方とか、大学で習ったのですが、でも、読んでも実感できない。
ただ、音を出しているだけのような気がしました。
ヤフーのフランス詩トピでは、安藤元雄氏の「フランス詩の散歩道」を参考にしていました。
でも、ヴェルレーヌやランボーの詩の一部は、韻文詩でも従来の形式では無いので、難しいですね。

で、フランス専門とは、フランス文学専門ということなのですか?
ゼミの課題の目的は、どういうことですか?
もっと身近なこと、日本文学との関係などの方が興味を持ちやすいと思います。
あるいは、映画でもよいし…
この BBS を作る前ですが、映画「太陽と月に背いて」をどう思うか、あるいは、日本のランボー翻訳、翻訳者による相違なども、いずれ話題にしたいとオーブさんとメールで話したことがあります。

既に過去の決まっていることがらは、学習することは出来ても、そこから新しい視点を探すことは、かなり難しいのでは。
ジャンコラ氏のテキストの読み方…
これも、新しい見方を提案しているのだと思います。
今回は、ちょっと苦しいようですが…

■詩法
shizue at 7/2(水) 16:47:59 No.paroparo-20030702160412

今図書館から借りている本は、鈴木信太郎氏のフランス詩法についての本です。
全集の中に入っているのを読んでいるのですが、どうもその内容が膨大なのと、旧仮名遣いなどが入っていて読むのに相当てこずっています。

フランス専門の先生は、基本的にはフランス革命における色々なことを研究されています。
なので、その後のパリ・コミューンなどフランスについて研究されているみたいです。
以前はフランスに住んでいたみたいで、最近もよくフランスに学会などなどで飛ぶこともあります。
ゼミは基本的に、個人の自由意志のもと(←こういうとこがフランス精神なのでしょうか)…という方向です。
調べたいことを調べて自分の考えを論ずる…。
基本的にはその調べる手法と能力、第三者にプレゼンする技能を育てることに多くを置いていると言っても過言ではないと思います。

「太陽と月に背いて」は、自分のゼミ論の趣旨を発表した時に紹介しました。
案外タイトルは知っていても、世間的な評判から避けている人が多いみたいです。
特に女の子とか…。いわゆる別の視点から見て食わず嫌いってやつですね。
つい最近、「ランボー 地獄の季節」というビデオを借りてきたのですが、「太陽と…」のランボーとは、少し違う人格で描かれていました。
何かを求める精神は変わらないのですが、レオナルド・ディカプリオの様に、活発的で攻撃的な人間を前面に押し出している感じではなかったように思いました。
具体的な人格イメージを「太陽と…」のランボーに頼りきっていたために、警告を受けたような気がします。

今手元にある詩集は、堀口大學氏、宇佐美斎氏、中原中也それぞれの訳本と、メッサン版の草稿複製篇の詩集です。
どうも、宇佐美氏の訳本は一般的に分かりやすく訳されてますが、それぞれに違和感を覚えたりもします。

>既に過去の決まっていることがらは、学習することは出来ても、そこから新しい視点を探すことは、かなり難しいのでは。

そうですね。そこにあまりにもこだわり過ぎているのかもしれません。
背伸びせずに、自分の純粋に知りたいことを突き詰めていくべきですね。
周りを見渡せば、彼に関する研究対象は散乱しています。
原点回帰の時期かもしれません。

■ vous, l'on, quelqu'un
Parolemerde2001 at 7/2(水) 17:48:33 No.paroparo-20030702174048

突然、少年時代に戻りました。
この l'on は、やはり自分が含まれる、自分が含まれていることを暗示させるたたの表現と、私も思いました。
この行には、vous も出てくるから、主人公 vous の種明かしの行かも知れません。
最初の行以来、物が(というより映像が)出てきて、主体はありません。
そして、l'on なので、quelqu'un となったのでしょうか。
手書き原稿写真版では、この文字は少し大きめに書かれています。
でも、無意識の程度だと思います。
この誰かさんは、存在する人なのでしょうか。
常には存在しないのかもしれませんね。

■>シードル
オーブ at 7/3(木) 08:03:50 No.paroparo-20030703074923

シードルはあまりアルコール度数は高くないです。
日本ではあまり飲まれていませんか?
日本にいるとき、りんご酒というのにひかれて缶のシードルを飲んだのですが、まずくてまずくて・・。
以来シードルはまずいと思い込んでいました。(^^;
でもこちらに来て、ためしに飲むと癖がなくさわやかで、間違った思い込みをしていたことに気づきました。
それにアルコールに弱い私でも大丈夫です。

なんのお酒かはわかりませんが、水差しの形をした素焼きのポット(?!)に入っていたのを見たことがあります。ワインだったような・・。
もしかすると、「素焼き」という言葉の使い方を間違っているかもしれません。
ただ、グラスやビンに入っているわけではないです。
なぜだか理由はわかりません。

そういえば、サイダーってフランスにはないような気が。
mari も聞いたことがないと言っています。
私も見たことないです。
ラムネはサイダーと同じですか?
私が知っているのはビー球がビンの中に入っていて、とりたいけどとれないというやつです。
お祭りの時によく見ました。

■ quelqu'un
オーブ at 7/3(木) 08:11:31 No.paroparo-20030703080715

この quelqu'unっておもしろいと思いました。
そして、ちょっと無責任な感じがしました。
on でも gens でもなく、quelqu'un。
ということは複数の人物ではなく、誰か一人の人物なのですね。
ランボーは誰を想像して書いたのでしょうか。
具体的ではない誰かでしょうか。

■新しい考え
オーブ at 7/3(木) 08:21:58 No.paroparo-20030703081355

>既に過去の決まっていることがらは、学習することは出来ても、
そこから新しい視点を探すことは、かなり難しいのでは。

どうしても過去の決まっている事柄に縛られてしまうことが私はよくあります。先入観です。
ちょっと視点を変えてみる、疑ってみる、白紙に戻してみる。
そうやって新しい考えを広げていければ素晴らしいですよね。
実際にはとても難しいですが・・。
私もジャンコラ氏の試みは良かったと思っています。
パロさんがおっしゃるように少し苦しいところもありますが。(^^;
フランスのランボー研究も古いものの中で行き詰っていたのではないでしょうか。

■>quelqu'un
Parolemerde2001 at 7/4(金) 08:32:08 No.paroparo-20030704083137

すこしく大きく書かれた quelqu'un ですね。
私は、無責任というより、幼い日の秘密をちょっとキザしてみたのかなと思っています。
この bois は、定冠詞ですから、あの森、秘密の森、でも半分は空想だったりして。
ここの湖は、「大洪水」や「フレーズ(無題)」の池かも知れません。
「地獄の夜」にも「石に囲まれた湖」が出てきます。
シャルルヴィル近郊の丘を含む森なのでしょうか。教会も見えます。
この「誰か」は、いつも同じ人なのか、解かりません。
私も子供の頃の記憶を辿っていくと、森ではありませんが、近所の空地で遊んでいました。
番人がいる病院の広い中庭だったり、取り壊しを待つ建物だったり…
誰もいなくても、誰かいる。
たとえば、オバケが出るとか、うわさがあったりして。
今思えばホームレスさん、かっては浮浪者だったかもしれないし、たんなる子供たちの空想だったかも知れません。
親に聞かれたら、そういう場所で遊んでいることがばれないように、適当に嘘を言っていた記憶があります。
ランボー個人の幼い記憶の世界ですから、解かりません。
文字通り、少し大きく書かれた「誰か」なのでは。
「魔女」が教えてくれないように、「少年」も教えてくれません。
きっと、大人から見れば大したことのない秘密なのでしよう。

■シードル
Parolemerde2001 at 7/4(金) 08:38:30 No.paroparo-20030704083654

千葉のハーブガーデンで、フランス製のシードルが輸入されていました。
最近では、やまやでも輸入販売しています。
たしか、ノルマンディ産だと記憶しています。
パリでも、ノルマンディ産が主流ですか?
いずれも、ノンアルコールもありました。
缶詰は知りません。
だいぶ前に、国産の小ビンがありました。
ちょっときつい味でしたが、シードルでした。
ちょっと割高だったかな。
サイダーは、たぶん、シードルから来た言葉、英語読みで、シードルの(アルコール無し)子供用模造品と思いますが、どこで初めに作られたものか、知りませんです。
ラムネよりも炭酸ガスが強いように思います。

■シードルとサイダー
オーブ at 7/4(金) 19:46:41 No.paroparo-20030704193530

なるほど、言われてみれば、サイダーとも読めますね。
でも味はぜんぜん違うように思います。
サイダーは子供向けに砂糖をたくさん使っているせいでしょうか。
ノンアルコールのシードルは今のところ、聞いたことがありませんね~。
ノンアルコールとは、ジュース、いわゆるサイダーのような味なのでしょうか??
もしカフェなどで見つけたら試してみます。
シードルがノルマンディ産が主流かどうか、ちょっとわかりません。
私がもらったのはパリ産でした。(^^)
また見ておきますね。

日本でもシードルを作っているのですね。
私が日本で飲んだ缶入りのは CM でもやっていました。
缶チューハイなどと同じシリーズでした。(といってもたくさんありますよね・・^^;)
こちらのシードルは味はまろやかでくせはないです。
もらいもののシードルもおいしかったですが、クレープやさんの シードルはまた一段とまろやかでおいしかったです。

■渇きの喜劇 壺
オーブ at 7/4(金) 20:02:12 No.paroparo-20030704195509

Moi- Ah! tarir toutes les urnes !

フランスにも亡くなった人のお骨を壺に入れるという習慣があった(ある)のでしょうか。
それともこれはランボーの独創なのでしょうか。

ちょっと気になりました。

■ Enfance 第4章
オーブ at 7/4(金) 21:21:16 No.paroparo-20030704211616

いよいよ第4章まできました。

Je suis le saint, en priere sur la terrasse, - comme les betes pacifiques paissent jusqu'a la mer de Palestine.
Je suis le savant au fauteuil sombre. Les branches et la pluie se jettent a la croisee de la bibliotheque.
Je suis le pieton de la grand'route par les bois nains; la rumeur des ecluses couvre mes pas. Je vois longtemps la melancolique lessive d'or du couchant.
Je serais bien l'enfant abandonne sur la jetee partie a la haute mer, le petit valet, suivant l'allee dont le front touche le ciel.
Les sentiers sont apres. Les monticules se couvrent de genets. L'air est immobile. Que les oiseaux et les sources sont loin ! Ce ne peut etre que la fin du monde, en avancant.

ぼくは高台で祈る聖人だ - 心優しい動物達がパレスチナの海まで
草を食べてゆくように。
ぼくは陰鬱な肘掛け椅子に座った学者だ、小枝と雨が
書斎の十字窓にうちつける。
ぼくは小人の森を通る大通りの歩行者だ。
水門のざわめきがぼくの歩みを覆い隠す。
ぼくは沈みゆく夕日の物悲しい黄金色の泡立ちを長いこと見ている。
ぼくは沖合いの堤防に打ち捨てられた子供なのだろう。
小さな召使。空に届く小道が続いている。
道は険しい。丘陵はエニシダが生い茂っている。
空気はそよがない。なんて鳥や泉は遠いのだ。
前進しても世界の終わりでしかないのだろう。

(訳 オーブ)

■ Enfance 第4章 考察
オーブ at 7/4(金) 21:36:56 No.paroparo-20030704212328

第3章が Il ya なら、第4章は節の始まりが Je です。
しかし最後の節には Je がありません。

最初から見ていきたいと思います。
ランボー少年は聖人、学者、歩行者、捨てられた子供になっています。
なぜこのような人物になったのでしょう。
Je suis le pieton de la grand'route par les bois nain
この「小人の森」は第3章の小人の一座と同じものでしょうか。
ランボー少年はここの森の大きな道をずっと歩いていくのですね。

■>quelqu'un
オーブ at 7/4(金) 21:54:54 No.paroparo-20030704213955

少し前後してしまいました。
quelqu'unについて私も少し書きたいと思います。

パロさんは子供の頃の秘め事を少しキザッてランボーが書いたように感じられたのですね!
私は子供の無責任さのような気がしました。(^^)
たとえば親に聞かれて答えたくないことは適当に答えておくみたいなかんじです。

母「このお菓子だれにもらったの?」
私「誰か」

っていうような感じです。
その後必ず、「誰かって誰?」と聞かれるのですが・・。(^^;

でも自分の中の秘め事という点においては、私もパロさんと同じです。
正直に言ってしまうと現実味を帯びて、秘め事がいろあせてしまいます。
というより、もう秘め事ではなくなりますね。
秘密は大人から見ればたいしたことはないのだと、私も思います。
この「誰か」は特に何でもない人なんでしょうね。
でも誰にも言わないことで、それだけで子供にとって「秘め事」になってしまうのだと思います。

■続 シードル
Parolemerde2001 at 7/4(金) 22:59:08 No.paroparo-20030704225838

私が飲んだ国産のシードルは、純粋にリンゴから作られた発泡酒でした。
味が、フランス産のよりきつかったのは、元のリンゴの種類かも知れません。
オーブさんが飲んだ缶詰のシードルは、純粋なシードルでしょうか、それとも、シードル風の缶チュウハイなのでしょうか。
パリ産というのは、パリで醸造しているという意味ですか。
それとも、パリのリンゴ?
シードルには AOC (原産地管理証明)は無いのですか。

紹興酒も、素焼きの壺と杯で飲みますね。
シードルの場合は、ちょっと田舎風なのでしょうか。
私が飲んだフランス産のシードルは、シャンパンのようなビンでした。
ラベルとかは、シャンパンに比べ、ぐぐっと庶民的でしたが。

■骨壷
Parolemerde2001 at 7/4(金) 23:16:22 No.paroparo-20030704231511

たしか、粟津氏がヴィタリーが墓地の中に埋葬された子供の死体が腐敗している様子を書いた文章を翻訳していました。
でも、例えば今なら、火葬した骨のことについて書いても不思議ではないように、それほど異常なことではなかったのかも知れません。

ただ、urne は、日本の辞書にも最初に骨壷が出てきますし、ロベールにも、第一義として、
vase servant a renfermer les cendres d'un mort とあります。
ジャンコラ氏も、Tarir les urnes pourrait alors signifier : faire taire les cendres. と書いています。
童話(寓話)にも、壺の中で骨が喋る話があります。
アルデンヌの当時の埋葬のしきたりが解からないので、推定でしかないです。
ランボーが、実際の墓をイメージしたのか、比喩的な表現なのかは、ちょっと解かりません。

■心優しい動物達
Parolemerde2001 at 7/4(金) 23:31:29 No.paroparo-20030704233100

心優しい動物達がパレスチナの海まで草を食べてゆくように。
って、この心優しい動物達は羊なのでしょうか、キリスト教徒の羊?…
子供時代なら、意識していたのではないかも知れませんが、十字軍、シオニズムなどを考えると、皮肉なのでしょうか。
「一なるものを信じる…」の
「…ひとりの「羊飼い」が、恐怖の空間の中を
この世界中のゆっくり歩く巨大な羊の群れを導いていくのか?…」
を連想して、不思議な気がします。

■>Enfance 第4章考察
Parolemerde2001 at 7/5(土) 22:02:21 No.paroparo-20030705220146

前の第3章が Il y a で、この第4章が Je なのは、ランボーなりの詩法なのでしょうね。

この、聖人という自画像は、やはり母親の影響もあるでしょう。
しかし、大人しく、聞き分けの良い、信心深く、勉強の好きな、小学校に上がる少し前の頃のランボーのなのでしょう。
続いて、雨が十字窓に打ち付けるのは、「大洪水の後」を連想させます。
十字窓 croisee は、やはり Croix の象徴なのでしょう。
だから、学者といっても、神学者とか、聖人の続きの人物像なのでしょうね。
これも、おそらく幼いランボーの自画像でもあったと思います。
同時に、普通の子供としての自分の場が無い、彷徨う子供でもあったわけですが…。
この夕日の情景に関しては、画家の名前は忘れましたが、アルデンヌ地方の川の夕日の絵を本で見たことがあります。
霞んだ中に太鼓橋が描かれていて、鈍い金色に全体が滲んでいました。
やはり、19世紀後半の絵でした。
小人の森は、たぶん小さい点在する森・林を喩えたのではないでしょうか。
小人がいるような、というイメージを第3章から引いてきたように思えます。
ランボーは、すでに歩行者であり、第3章の森の中には入れないようです。

そして、この第4章も、最後の節になって急に体験の断片のような情景になります。
それまでと同じ記憶の中の世界ではあるのでしょうが。
前進すれば世界の終りに行く道をどうするのでしょう。
次の第5章がその答えということなのでしょう。

■シードルは・・・
オーブ at 7/8(火) 01:45:57 No.paroparo-20030708013704

おひさしぶりです。すっかりご無沙汰してしまい、すみません。

さてさて、シードルの話の続きなのですが・・。
前に、私の飲んだシードルはパリ産だと言ってしまいましたが全くの、まったくの思い違いでした。
ラベルを確認したところ、会社がパリにあるというだけで、パリで生産しているとは書いてませんでした。
早とちりで申し訳ございません。
どこで生産しているかは書いていませんでした。

それに、私がおいしいと言っていたシードルは栓を抜いて、3日後くらいの気の抜けたものだということが最近判明しました。
つい最近、またシードル(前飲んだのと同じもの)を買ってきて飲むとすごくすっぱいというか苦いというか・・おいしいとは思えませんでした。
発泡酒ですね。しゅーしゅーしてました。(^^)

ただ、クレープやさんで飲んだシードルは本当においしかったと思います。
やっぱりスーパーで売ってる、2本3ユーロはいけませんね・・。
おいしいものはお値段もそれなりです。(^^;

■>骨壷
オーブ at 7/8(火) 01:56:32 No.paroparo-20030708014649

>たしか、粟津氏がヴィタリーが墓地の中に埋葬された子供の死体が腐敗している様子を書いた文章を翻訳していました。
でも、例えば今なら、火葬した骨のことについて書いても不思議ではないように、それほど異常なことではなかったのかも知れません。

私もこの文章を読んだことがあります。
確か、娘ヴィタリーの墓を掘り起こしたとか・・。
ちょっと恐ろしいですね。(^^;

urne は確かに、辞書でも骨壷とでてきますし、ジャンコラ氏の注にもその説明が書いてありましたね。
日本では火葬してお骨を埋葬するのでわかりますが、土葬のフランスでは何の目的なのでしょう・・。
想像するとちょっと怖いですが宗教観の違いでしょうか。

ただ初めて聞いたのでびっくりしてしまいました。

■心優しい動物たち
オーブ at 7/8(火) 02:22:25 No.paroparo-20030708021532

私も羊をイメージしました。
おとなしい草食動物の代表として。
この詩だと、キリスト教との関連があるかもしれません。
ただパロさんがおっしゃるように、子供だから意識して書いたわけではないかもしれませんね。
「心優しい動物達」、これだけで想像力をかきたてれてしまいました。
もしかすると、羊だけではなくヤギや牛、馬、うさぎもいたのかもしれません。

■ Enfance 第4章考察 学者、聖人
オーブ at 7/8(火) 02:35:03 No.paroparo-20030708022438

パロさん、ありがとうございます。よくわかりました。

「聖人」も「学者」も幼い日のランボーの例えだったのですね。
どちらもあまりランボーとは結びつかなかったので、意図がわかりませんでした。
おとなしく信仰心の厚い、勉強好きないわゆる、仮面をかぶった自分ですね。
雨が十字窓に打ち付けるのは、「大洪水の後」と同じように、密かな幼いランボーの空想なのかもしれません。
大雨が降り続いて、大洪水になり、すべてを流し去ってほしい。
「学者」ではありますが、幼いランボーの心の風景が表れているようです。

ぼくは沈みゆく夕日の物悲しい黄金色の泡立ちを長いこと見ている。

以下から少し物悲しい感じになりますね。
とても孤独な様子です。
次で少し書きたいと思います。

■沈む夕日
オーブ at 7/8(火) 05:54:54 No.paroparo-20030708054400

ぼくは沈みゆく夕日の物悲しい黄金色の泡立ちを長いこと見ている。

先ほども書きましたがなんとも言えず、悲しい気持ちがします。
私も夕日を見て物悲しい気持ちになったことがあります。
小~中学生くらいのときだったと思います。
みなさんそのような経験があるのでしょうか。
沈んでいく夕日はなぜ物悲しいのでしょうか?
すっかり暗くなると全くそんな気持ちはなくなります。
大人になるにつれて、沈む夕日は悲しいというより、美しいと思えるようになりました。

ぼくは沖合いの堤防に打ち捨てられた子供なのだろう

まるで捨てられた子どものように孤独なのでしょうか。
小さな召使、まるで子どもの召使のようにいい子に振舞っている幼い自分の例えなのでしょうか。

ここの節はランボー少年の繊細な心が表されていると思いました。

■土葬
Parolemerde2001 at 7/8(火) 21:20:36 No.paroparo-20030708212002

土葬についてですが、私もヨーロッパの墓の中を見たことはありません。
日本でも、戦前は土葬だったところもあるようです。
かなり前なのですが、たぶん、中学かな…
ヨーロッパの恐怖映画の古典を見る機会がありました。
吸血鬼ドラキュラとか…、です。
その映画のひとつで、大き目の墓の中が映っていました。
墓の中が小さい部屋のようになっていて、そこに棺が並んでいました。
その棺の中で、人が腐って骨になります。
そこまでは、印象に残ったので覚えています。
その骨を骨壷に入れるのでしょうか、解かりません。
でも、これは、貴族とか、そういう人の墓の話だと思います。
土に埋めるのではなく、安置室において置くわけですが、それがどのくらいの時間なのかも、映画なので分かりませんでした。
ヴィタリーの書いた墓はどうだったのでしょうか。
地方によっても違うと思います。
寒い地方は(温暖化以前ですから)長く安置できますし…
フランスの歴史の本には出ているかも知れませんね。
ところで、今のフランスの土葬はどういう形なのでしょう?

■「太陽と月に背いて」
Parolemerde2001 at 7/8(火) 23:03:55 No.paroparo-20030708230257

shizue-san

ゼミは進みましたか? テーマは決まりましたか?
ちょっとお聞きしたかったのですが、shizue-san は、「太陽と月に背いて」からランボーに興味を持たれたのですか。
映画の評価も人により様々ですが、既にランボーを読んでイメージを持っていた人が映画を見た場合とあの映画でランボーを知り、詩を読んだ人と、大別して、どのように違うのか、興味があります。
shizue-san の抱いたイメージはどういうものだったのでしょう?

さて、映画はインディーズ作品ではなければ、興行的に話題性を作り、収益が上がるように企画されます。
この面からも、あの映画を分析することもできると思います。
また、日本以外の国での、つまりフランス、イギリス、アメリカ、ドイツ… での、評価や観客動員なども比較するとおもしろいかも知れません。
いつか、このトピでも、ランボーの映画について討論できたらおもしろいと考えています。

で、私からの感想を一言、きれいでした。きれい過ぎのような気もしました。
ランボーはもちろん、汽車も、サロンも、部屋も、ロンドンも…
実際のところは、分かりません。
私はシャンソンに詳しくないのですが、Brigitte Fontaine の Comme Rimbaud の歌詞の始めは Je suis sale comme Rimbaud だそうです。
この sale は、「大洪水の後」の汚れた大通りの sale です。
まあ、ロックやパンク(これもロックに入りますが)ミュージシャンにランボーは好まれますが、このシャンソンも同様かも…
「おれはランボーのように汚えんだよ…」

■埋葬のしかた
オーブ at 7/9(水) 01:34:04 No.paroparo-20030709011311

少し前の映画ですが、LES RIVIERES POURPRES というのがありました。
日本で公開されたどうかはわかりません。
ご存知の方、いらっしゃるでしょうか。
ジャン・レノとヴァンサン・カッセルが出演していて、監督はマチュー・カソヴィッツです。
内容はフランスではタブーとされていることでした。

さて、この中でフランスの墓地が出てきます。
この映画で初めて知ったのですが、安置所に遺体を置いていました。
フランスの墓地を見たことがある方はわかると思いますが、ところどころに、小さな家のような建物があります。
私は何をするところか、ずっと疑問に思っていましたが、この映画を見て疑問が解けました。
遺体を安置するところだったようです。
何の目的で、何日間安置するのかはわかりません。
その後埋葬するのでしょうか?
この映画の中では、安置されている遺体がなくなっている疑いがあるので、確認のため刑事が棺おけを開けるシーンがありました。
かなり衝撃を受け、mariにも遺体の安置のことをいろいろ聞いたのですが、彼もこの映画を見るまでしらなかったといっていました。
だから、普通はすぐに埋葬するのではないかと思います。
宗派や、遺族の考えなどによって、いろいろあるのかもしれません。

パロさんのご覧になった古い映画もやはり遺体が安置されていたのですね。
だからゾンビなどのホラー映画が作られるのかもしれません。

私も日本も昔は土葬と聞いたことがあります。

■太陽と月に背いて 一言
オーブ at 7/9(水) 01:50:19 No.paroparo-20030709014614

私はランボーがかわいいな、と思いました。
かわいすぎるくらいかわいかったです。(^^)
自分のイメージとは違っていましたが・・。

■土葬
Parolemerde2001 at 7/9(水) 21:24:06 No.paroparo-20030709212316

LES RIVIERES POURPRES は、日本名はクリムゾン・リバーです。
ちょっと色合いが違うような、でも映画は見ていません。
私も、フランス映画などで、土葬のシーンは何回か見ました。
剥き出しの土に穴を堀り、そこにいわゆるあちらの棺おけを入れて、その上に土をかけて埋めてしまいますね。
これが、今でも一般的なのでしょうか。
地方により、違うのかもしれません。
ランボーの母方は、地主でしたので、安置室のある墓があったのかも知れませんね。
その方が「渇きの喜劇」は理解しやすいかも…

■映画
オーブ at 7/10(木) 02:22:13 No.paroparo-20030710020443

LES RIVIERES POURPRES は日本でも公開されていたのですね。
クリムゾン・リバーってどういう意味なのでしょうね。

この DVD ですが、新しくテレビを買ったときにおまけで付いてきました。
しばらくほったらかしていましたが、暇なときに観ました。

パロさんがおっしゃられたような埋葬法が一般的なのではないかと思います。
昔はちょっと違ったかも知れませんがどうでしょう。
いまよりもキリスト教色が強かったでしょうし、死者の弔い方にしきたりなんかあったかも。
それにパロさんがおっしゃるように、安置するのは貴族とかお金持ちなのでは。

■安置室
Parolemerde2001 at 7/10(木) 22:05:27 No.paroparo-20030710220021

クリムゾン(クリムソン)は、紅、深紅色です。
なんか、色が少し違ってしまったような…。
英語の題が、クリムゾンだったのかも知れません。

ところで、次の第5章はこれからですけど…
この第5章も、実際の場所は違うのでしょうが、どこかに安置室のイメージがありますね。
最初の行からして…
ランボーは、キュイフ家の安置室を見たことがあるような気がしてきました。
まったく勝手な推測です。

■太陽と月に背いて
shizue at 7/11(金) 03:52:42 No.paroparo-20030711030626

私はランボーを知った後に観ました。
けれど、知ったと言ってもランボーの詩を授業で取り上げたくらいの時ですので、知っているうちに入らない時かもしれません。
ランボーの生涯については、触れましたが詳しくはやらなかったので、結局この映画に偏ってしまった嫌いがあります。

まだテーマは決まっていません。
もうそろそろ本腰を入れて決めなければいけないのですが、色々迷っています。
けれど、この映画についてやろうかなとも思っています。
言われた様に、文献にあまりにもこだわり過ぎない、フィールドワーク的なランボー解析も面白いかもしれませんね。

私の中の初めてのランボー像は確かに「太陽と月に背いて」の様に綺麗ではなかったと思います。
とにかく、あの時代のゴタゴタした感じとパリから離れた田舎出身というところから、殆どその発想はきていますが…。
今で言うと、テレビとかのお笑いのコントネタで使われる様な、田舎から上京してきて、 ガイドマップを見てキョロキョロしながらどこかの(大概東北方面が使われますが)訛りを喋っている感じです。(ランボーも実際は訛りがあったのか?なんて下らない事も考えたりします)
でも、「太陽と~」を見て、最初からここまで自身がある人間だったのか、と打ちのめされた感じでした。

先生によると、フランス人の中でランボーの作品は別として、彼自身の生き方にはあまり好感を抱いていないようです。
フランス人は基本的にどこかに定住することを好み、またそれが良しとされているらしく、ランボーの様に思うがままに、住む場所をコロコロ変えてしまう生き方はあまり好まないようです。
そこのとこ、オーブさんは実際に住まわれててどうですか??やっぱりそうなのでしょうか。

最後に。これははじめて見た時から疑問だったのですが。
最後にレオナルド・ディカプリオがナレーションで朗読する「永遠」。
彼は「 It's the sun mingled with the sea 」と言っていますが、これは間違ってないのでしょうか??
私は「 It's the sea mingled with the sun 」だと思っているのですが…。
これまたはやとちり??なのでしょうか。

■ランボーの生き方は・・
オーブ at 7/11(金) 20:24:05 No.paroparo-20030711194059

shizueさん、パロさん、みなさんこんにちわ!

shizueさんの書き込み、興味深く読ませていただきました。

>先生によると、フランス人の中でランボーの作品は別として、彼自身の生き方にはあまり好感を抱いていないようです。

やっぱりそうなのですか。実は私も思い当たる節があります。
ちょうど一年ほどまえなのですが、義理母の友達の家に泊まりに行ったことがあります。
私がランボーが好きだと言うと、その人にちょっと驚かれました。
そして、「ランボー自身ではなくてランボーの詩がすきななのよね」と言われました。
「ランボーって変わってるわよね」とも・・。(^^;
私は人と詩を分けて考えていなかったので、こちらもちょっとびっくりしたのですが、詩が好きなことに変わりはないのでとりあえず、oui と答えておきました。

でもランボーを好きな人も知っています。
夫の友達の彼女で、まだ20歳過ぎの若い女性です。
ランボーの本を見せてくれました。
個人の好みにもよると思いますが、比較的若い人が好きなのでは・・と個人的には思っています。
あの、詩の中に出てくる普通では使ってはいけない言葉使いが受けるのでしょうか。(^^)

そこで思い出したことがあります。
ちょっと話がズレますが、以前お世話になったホームステイ先のマダムはピカソが大嫌いでした。
「あんな絵でお金を稼ごうなんて信じられないわ」と言っていました。
私は有名で偉大な画家だと思っていたので好きも嫌いもなかったのですが。
フランス人は案外正統派なもの(人)やわかりやすいもの(人)が好きなのかも知れませんね。
チャレンジ精神よりも安定した生活を望む傾向にあるのはわかる気がします。

でも芸術家や詩人はランボーに限らずみな変わっている様な・・普通の生活の中では作品は生まれてきにくいでしょうね。

確かに田舎からパリに出てきた実際のランボーは不潔だったでしょうね。
しらみがわいていたという話もあります。(^^;
当時では珍しくなかったと思いますが・・。
それと、ランボーもアルデンヌ訛りがあったようですよ。

>私は「It's the sea mingled with the sun」だと思っているのですが…。

ほんとだ、フランス語でも
C'est la mer allee Avec le soleilとなっています。
どうしてでしょう?

■>ランボーの人物像
Parolemerde2001 at 7/11(金) 23:26:38 No.paroparo-20030711232254

みなさん、こんばんは。

日本の作家でも、かっては、廊下にカレーライスを並べてその上でのた打ち回ったりとか、いろいろな逸話があります。
まあ、マルキド・サドとかには及ばないかも知れませんが…
時代が変われば、人の感覚も変わります。
日本人でも、中原中也の詩が好きでも、今では彼のように生きたい人は少ないかも。
今では、ボヘミアンはファッション用語になってしまって、19世紀のパリのカフェでたむろしていたアーティストたちとは違います。
でも、チーマー、汚ギャルとか、新しい形でのボヘミアンもあると思います。
フランスと比較してみるのも良いですが、客観性を持たせるのが難しいですね。
国による相違を扱うのであれば、ある程度のデータ量が必要では。

ランボーには訛りがあったと書かれていますね。
ヴェルレーヌも北東フランス出身ですから、親近感を持ったかも知れません。
このことについては、分かりませんが…
「時々、彼は、心やさしいお国なまりで…」(「錯乱 I」)
パリに出てきてからも、居る場所が無くなって、外に寝たり、ゴミ箱をあさっていたという話もあります。
「おれは異臭を放つ路地を這い廻って、目を閉じ、火の神、太陽に身を捧げていた。」(「錯乱 II」)

ドラエーの証言によれば、パリに出る前はかなり緊張していたようです。
でも、詩人としては、とても自信を持っていた人だと思います。
それは、ごく初期のラテン語詩からです。
詩人としての自信と、パリでうまく振舞うことへの自信は同じではありませんが…
映画で作られた人物像は、もちろん本人では無いですが、伝記とか、詩とか、あるいは映画からしか、知りようが無いですね。
ランボー像も人により違うでしょうし、映画の見方も様々ですから、それを調べることもできますね。

■「永遠」の英訳
Parolemerde2001 at 7/11(金) 23:43:46 No.paroparo-20030711234120

この英訳の元は、後期韻文詩篇(新しい詩篇とか、今ではいろいろに呼ばれています)の「永遠」ではなく、「地獄での一季節」の「錯乱 II」の中の引用詩ではないでしょうか。
それにしても、 la mer melee Au soleil なのですが…。

英語は、日本語よりはフランス語に近い構造、語彙をしていますから、比較的そのまま置き換えればよいと思うのですが、たしかに、フランス詩トピで出てきた、「谷間に眠る人」のように、そのまま訳すると意味が違うとか、英語にはない表現とかもありますが…
でも、読んでみると、結構、言い換えてしまう訳が多いように思えます。
例えば、「永遠」の allee avec でも、gone off with という訳もありますが、fled away with という訳もあります。
これは解釈の違いなのでしょう。

日本でも、ネットの書き込みなどを見ていますと、「永遠」は、「地獄の季節」の引用詩の方で受け取られていることが多いようです。
「太陽にとろけた海」とか…

■道は険しい
オーブ at 7/14(月) 04:26:58 No.paroparo-20030714041923

みなさんこんにちわ。それでは Enfance第4章の最後の部分を見てみましょう。
もちろん今までの話で何か思い当たることがありましたら、どんどん書き込んでくださいね。

Les sentiers sont apres. Les monticules se couvrent de genets. L'air est immobile. Que les oiseaux et les sources sont loin ! Ce ne peut etre que la fin du monde, en avancant.

道は険しい。丘陵はエニシダが生い茂っている。
空気はそよがない。なんて鳥や泉は遠いのだ。
前進しても世界の終わりでしかないのだろう。

道は険しい、これは人生の道のことをいっているのでしょうか。
詩人としての人生とか・・。
ランボーは歩行者で、すでに歩き始めています。
どこに向かって歩いているのかはわかりません。
「前進しても世界の終わりでしかない」
ランボーが求めているものは?
魂の世界なのでしょうか。

■>道は険しい
Parolemerde2001 at 7/14(月) 17:25:07 No.paroparo-20030714172434

ここの部分を読むと、ちょっとした草木の深い道で迷った時を思い出します。
山道で迷ったこととか、それほどではなくても、藪の中で迷ったこととか、 周りがよく見晴らせないので、あせってぐるぐる回って、 藪のそとに出られなかったりした体験です。

でも、「前進しても世界の終わりでしかない」というのは、次の第5章につなぐための言葉であり、子供時代にそのように感じたのか、疑問に思います。
お家に帰れなくなっちゃう、とか、出られないとかは感じたと思いますが。
でも、厳しく育てられた子供の孤独と、諦観がどことなく感じられる言葉です。
むしろ、魂の世界では救われない予感がするから、孤独と諦観があるのでは。

■>>道は険しい
オーブ at 7/14(月) 20:12:03 No.paroparo-20030714200158

普通なら世界の果てにはたどり着けない、と考えてしまいそうです。
ランボーの時代ならなおさら飛行機もないし、車もありませんでした。
ランボーにとっては世界はまだまだ遠い存在だったと思います。
例えば、今ならフランスから日本まで飛行機で12時間ですが、当時ならどうだったでしょうか。
船で何ヶ月かかったか・・。

ここで言う「世界」は地球上での世界とは違うのかもしれません。
もっと抽象的な何か。子ども時代でしょうか、それとも詩人の世界でしょうか。

いづれにしても、とても孤独ですね。

第5章を見てみたいと思います。

■ Enfance 第5章
オーブ at 7/14(月) 20:18:09 No.paroparo-20030714201339

V

Qu'on me loue enfin ce tmbeau, blanchi a la chaux avec les lignes du ciment en relief – tres loin sous terre.
Je m'accoude a la table, la lampe eclaire tres vivement ces journaux que je suis idiot de relire, ces livres sans interet.
À une distance anorme au-dessus de mon salon souterrain, les maisons s'implantent, les brumes s'assemblent. La boue est rouge ou noire. Ville monstrueuse, nuit sans fin!
Moins haut, sont des egouts. Aux cotes, rien que l'epaisseur du globe. Peut-etre les gouffres d'azur, des puits de feu. C'est peut-etre sur ces plans que se rencontrent lunes et cometes, mers et fables.
Aux heures d'amertumes je m'imagine des boules de saphir, de metal. Je suis maitre du silence. Pourquoi une apparence de soupirail blemirait-elle au coin de la voute?

ついに誰かがおれにセメントの線の起伏のある石灰で白くなった
この墓を貸す。地下の奥深いところに。
おれはテーブルに肘をつく。明るいランプはばかみたいに
何度も読み返しているこれらの新聞やおもしろくもないこれらの本を
赤々と照らし出している。
地下のおれの住みかのずっと上の方には
家々が根を下ろし、もやが立ち込めている。
泥は赤か黒。化け物じみた街は果てしない夜!
さらに上のほうには下水道がある。両側には地球の厚みしかない。
青空の深淵が火の井戸なのだろう。
そこはたぶん月と彗星、海とおとぎばなしが出会うところなのだろう。
心痛む時間の中でおれは自分がサファイヤか金属の玉ではないかと
想像してみる。おれは沈黙の住人だ。
丸天井の片隅にある換気窓のように見えるものが
青白く光るのはなぜだろう。

(訳 オーブ)

■ Enfance 第5章 考察 ロンドンの地下?
オーブ at 7/14(月) 20:23:22 No.paroparo-20030714201907

おとぎばなしの子ども時代は終わり、青年になったランボーがいます。
ここはロンドンの地下と考えられているのですね。
前にパロさんがおっしゃられたように、墓穴に近いような気がします。
ここの章を読む限りでは、地上からとても深いところにランボーはいるようです。

■世界の果て+第5章
Parolemerde2001 at 7/14(月) 22:09:07 No.paroparo-20030714220826

いわゆる世界の果てではなく、子供だったランボーの世界の果て、ランボーが歩き回れた森や街道を超えてしまえば、自分の所(家)には、もう戻って来れない。
それが、子供にとっての世界の果てでは。
さらに、昔でしたら、馬車に乗れなければ、そう遠くには行けない。行ったら、戻れない。
ここは、世界の果てなのだ。ここから先に行ったら、もう戻れない。
と、お利口な少年は自分に言い聞かせました。
と、同時に、少年時代そのものの果てとして、第5章の子供ではない世界に導いているのでは。

最初の行の Que は、願望と取ったのですが、オーブさんは、強調と取りましたか。
もうひとつ、「青空の深淵が火の井戸なのだろう。」
これは、新しい読みですね。
私は、ただ単にふたつ並べてあると読んでいましたが、こうも読めるように思えてきました。
「化け物じみた街は果てしない夜!」も同じように、繋げて解釈されていますね。
一般的な言葉としては、どうなのでしょう。
それから、maitre が、住人となっていますが、これは、意訳でしょうか。あるいは、何か意味があるのでしょうか。

■Queについて
オーブ at 7/15(火) 02:23:29 No.paroparo-20030715013309

パロさん、こんにちわ。

さっそくのご指摘ありがとうございました。
沈黙の住人、これは私の完全なミスです。「主人」ですね。
フランス語のミスではなく、日本語ですね。
形が似ているだけですが・・。(^^;

それと、「青空の深淵が火の井戸なのだろう。」
これはちょっと自分でも?なのですが、たぶん「が」ではなく、「か」と書きたかったのだと思います。「青空の深淵か火の井戸なのだろう。」
文を続けたことには違いありません。

少し前に訳をし、ファイルに保存してあるものをコピペしているので、書き込む前に、何度か見直しをしているのですが自分では気づかないものですね。
ありがとうございました。

さて、最初の行の Que なのですが、実はどういうことなのかわかりませんでした。(^^;
私もこの Que についてパロさんにお聞きしたいと思っていました。
たった今、mari に聞いたところ、パロさんがおっしゃるように願望、もっとはっきり言えば、依頼や命令をあらわすとのことで、パロさんの訳がまさに正しいと思います。
「~してくれ」のように、誰かにそうするように頼むときの Que で、ほかの使い方はしないそうです。私の辞書に、Qu'il s'en aille. 「彼が立ち去るように」(彼を立ち去らせよ)という例文が載っています。まさにこれと同じだと言っていました。
でも今ではこういう使い方はしないそうです。古いフランス語なのでしょうか、それとも文学的過ぎるのでしょうか。そのへんは良くわかりませんでした。
私も Que にこういう使い方があるとは知りませんでした。
パロさんはどのように、この Que が願望、命令だと判断されたのでしょうか。
辞書にも命令、願望以外でいろいろ例文が載っていますが、いまいちどれもピンときませんでした。

「化け物じみた街は果てしない夜!」
「は」がないのとあるのとではちょっとニュアンスが変わっておもしろいなと思いました。
私はここの「,」を同格ととらえてみたのですが、どうでしょう・・。
こういうとらえかたはあるのでしょうか。ちょっと不安になってきました。(^^;
ランボーがここで et を使わなかったのは、詩において、その方がきれいだからでしょうか。


■ Moins haut
オーブ at 7/15(火) 03:14:12 No.paroparo-20030715023204

4節目の初めの Moins haut についてですが、これを訳すとき少し迷いました。
結局「さらに上のほうには」という訳に落ち着いたのですが、これはランボーのいる位置から
みて、上のほうということです。
でもランボー的には、家々が根を下ろし、化け物じみた街や果てしない夜がある、つまり地上から見て、「少し低いところ」なのですよね。
でもここでこういう風に訳すとなんとなく意味がつかみにくいと思ったのですが。
例えば、「地上から少し低いところに」とした場合、日本語としてわかりにくいとも思うのは私だけでしょうか。
低い、高いの基準になっているもの(ここではランボーのいる位置と、地上)の違いだけなのですが・・。

パロさんは、「少し上」と訳されていますね。
ランボーがいる位置を基準にして訳されたと考えて良いでしょうか。
これを書いている今もちょっとこんがらがっています。
基準を地上と考えると、Moins haut は plus bas と同じ意味になるということで、意味的には「さらに低い」でいいのですよね。

本来なら Moins haut queと比較で使われるのでしょうが、でもこの場合は詩ですからそういう構文にすると、作文のようできれいではありませんね。

■>Que + Moins haut
Parolemerde2001 at 7/16(水) 00:09:20 No.paroparo-20030716000836

Que に関しては、私も初めは解かりませんでした。
すでに、墓のような部屋の中に居るのですから、何も今更貸してくれと言わなくても良いのに?
強調しているのかなぁ、とも考えてもみました。
でも、おそらく、そのまま墓として貸してくれという意味なのでしょうね。
ですから、墓でも、埋まっている所と言うより、やはり安置室的な気がします。
文語的でもあり、命令的というよりは、祈願的な使い方をするのではないでしょうか。
ですから、日常的には使われないような気がします。
ランボーの時代の詩の言葉は、やはり日常語とは幾分違うでしょうし、宗教的な言い回しとかも、あるのではないかと思います。
日本語でも、「御国を来たらせたまえ」という言葉はあっても、「あの荷物を届けさせたまえ」とは言いませんから…

「化け物じみた街は果てしない夜!」に関しては、単純にイメージが、続けて浮かんだととりました。
同格ではなく、並列です。
街は外観ですが、夜には時間が流れています。
地上は見えませんから、まず街がパッと浮かび、次に、今は夜だから、夜の市街のイメージが浮かぶ、そんな感じに受け取りました。
そういう意味では、街は(今)夜と訳せなくもないでしょう。
et で結ぶと、関係付けが強すぎるような…

「青空の深淵か火の井戸なのだろう。」
これも、たぶんこういう意味なのだとは思うのです。
でも、火の井戸はマグマと現実的に理解できますが、青空の深淵は、具体的にはなんだか解かりません。
天のはずなのに、深淵なのですから、逆転した青空の地獄なのでしょうか。
地獄は火の井戸にも繋がっているように思えます。

Moins haut ですが当時のロンドンなどの写真を見ると、道の中央が下水の溝になっていますね。
今は、道の両端が下水の溝ですが。
そして、溝の水が集まって、地下の大きな下水道に流れます。
egout を辞書で引くと、canalization, generalement souterraine... なので、下水道の意味だと思います。
ですから、これを moins haut と表現したのでは。
実際にランボーがいた地下室(地下サロン)が、地下鉄大江戸線のように大深度地下であったとは考えられませんが、地下深くにあるようにイメージしているのでしょう。
もっと高くないという表現は、日本語では使いませんね。
彼は私よりもっと背が高くない、では、なんだか解からない。
つまり、背が低いんだけど…
この節の続く文章が、ランボーの位置から書いてあると読めるし、前の節も、つまりロンドンの町もランボーの位置のはるか上と書かれてます。
ここで、急に町の少し下というのは、日本語として解かり難いと考えました。
他の表現に合わせて、ランボーの位置からとしました。
でも、なんだか、言われてみるといずれも解かり難いですね。
この部分だけ、ちょっと変わっているのでしょうか。
ランボーは下水を強調したかったのでしょうか。
町の下に下水道が張り巡らされているというふうに。
当時のシャルルヴィルの下水はどうなっていたのでしょうか?

■ Que
オーブ at 7/16(水) 19:32:19 No.paroparo-20030716183629

ここの章を読んで感じたことは、ランボーって地下のすごい深い所にいるんだな、ということです。
今でこそ地下にショッピング街や、映画館、レストランがあってエスカレーターやエレベーターで気軽に上り下りできますが、ランボーの時代にこんなに深い地下があったのかと驚いています。せいぜい家の地下室程度の深さかと思っていましたがそうではなさそうですね。実際、ランボーはロンドン、またはフランスでこんなに地下深い所にいたことがあったのでしょうか。それとも想像で、安置所からのイメージでしょうか。

Que は辞書に「願望、命令を表す」と書いてありますが、mari は願望ではなく、依頼だといいます。(命令かどうかはわかりません)
「くつを持ってきてくれ」というのと同じだとか。
でも文語的な表現であり、ランボーの時代なら、させたまえ、させよ、なのでしょうね。
フランス語は日本語ほど複雑ではないのかもしれませんね。
訳としては普通に「~してくれ」のほうが今っぽくて良いような気がします。

この墓を貸してくれ、は「この」となっているので、ランボーがいる地下室のことと考えていいでしょうか。
でも、もう借りてますよね・・。

「化け物じみた街は果てしない夜!」
はこのまま残しておくことにします。(^^)
並列、と言う言葉もあったのですね、すっかり忘れていました。
同格と言うより、その方がぴったりきます。
ありがとうございました。
「化け物じみた街」は巨大な近代都市の意味としてとりました。
この街は果てしない夜のように永遠に続いている、または果てしなく大きく膨らんで行くのではないかと。
そして、街と夜が一体化するようなイメージが浮かんできました。
今で言うと、東京など日本の近代都市のほうがイメージが近いです。
mari はトゥールーズにいるとき、トゥールーズはほんとに大きな都市だけど東京はそれ以上に大きい、その巨大さが信じられないと言っていました。
でも今だと近代都市は「眠らない夜」になるのかも・・。
もうひとつ思ったのは、「果てしない夜」は実際の夜ではなく、街が暗い例えなのかもしれません。
煙のせいで昼でも曇って見えるとか、空気が汚れているとか。

「青空の深淵」私も具体的に何を表しているのかわかりませんでした。
「青空の深淵」を天国、「火の井戸」を地獄として、天国と地獄のちょうど境目にランボーはいるのかな~とも考えたのですが、わかりません。

■捨て子と世界の果て
Parolemerde2001 at 7/16(水) 19:31:50 No.paroparo-20030716193047

ところで、捨て子と世界の果てですが、これは男の子の場合には、さほど不思議な感覚ではないように思います。
種類、環境、集団の大きさなどによっても異なりますが、生物的に見ても、近い血縁の交配を避けるために、サル類とか、オスはある程度の年齢にたっすると群れを離れるか、離れないとしても、子ザルとして保護される立場の外に押し出されます。
ですから、人類のオスが自分を捨て子を感じても不思議はないでしょう。
人類の場合は、オスが家を継ぐことが多いですが、これは労働システムの保存のためであり、大体は、長男に受け継がれます。
もちろん、家が大きくて生産力が高い場合は、兄弟で分割することもありますが、生産力が低い場合は、それ以上分割すると生存が難しくなるため、選ばれた(多くの場合は長男)に所有支配権が委譲され、他の兄弟は、テリトリーから外に出て行きます。
日本の場合でも、江戸など都市の芸人、職人の多くは農村から出てきた人たちですし、戦後の集団就職なども、産業・政治的に起った、同様の現象ではないでしょうか。
ただし、現在は、フランス、日本ともに少子化で、この感覚は変わってきていると思います。

さて、テリトリーの外れは、幼い子供にとって世界の果てと意識されるのではないでしょうか。
でも、やがて大人のオスになる頃には、この世界の果ての先に出て行かなくてはなりません。
少年ランボーは、シャルルヴィルから出たいと熱望していましたが、この詩の第4節までは、それ以前の、もちろん詩人という自覚を持つ以前の、幼いランボーだと思います。
ここには、学校の集団生活の匂いがありません。
ところがこの詩「少年時代」は、少年時代を飛ばして、詩人の青年時代初期に飛んでしまいます。
テリトリーの外に出た、フランスからも出たランボーは、少年時代に戻れません。しかし、まだ大人の男の世界にも入れません。
墓を貸してくれる人はいたのでしょうか。

「地獄での一季節」の「悪い血筋」には、
「…おれの家と同じで、なにもかも「人権宣言」から手に入れてきたわけだ。
――良家の子弟も知り尽くした!」
と書かれますが、母親のキュイフ家が、封建制での領主の下の農民から、人権宣言の時代に有力地主に成り上がったことも、プティフィスの伝記に書かれています。
ランボーの母親は土地を守ることを望み、資本を生産力に変えてブルジョワになることは望まなかったようですが、ランボー自身は、時代の子供として、植民地のアフリカで事業を起こそうと試みています。

■大深度地下
Parolemerde2001 at 7/16(水) 20:24:35 No.paroparo-20030716202327

やっぱり Que は、…してくれたまえ って感じなんでしょうね。
でも、今の言葉なら、貸してくれでよいように思います。
くださいというのも妙ですし、貸したまえというのも、変だし…。

この地下深くは、やはり現実のことというより、夢想なのではないでしょうか。
当時のロンドンに、下水道より深い地下室があり、カフェに使われていたのか、解かりません。
この時代は、ロンドンにはカフェは少なかったようです。
ですから、カフェのような機能の空間という意味で、パブとか…。
地下深くは、やはり安置室、そして、地獄に通じている場所ではないのでしょうか。
ところで、「渇きの喜劇」の酒蔵のことを、ドラエーの証言しているビール置き場という説明がありましたが、安置室のようなイメージもあります。
イリュミナスィオンの「大都会」には、町の深さが描かれています。
地下鉄(メトロポリタン・レイルウェイ)を始めとする地下空間の利用もランボーには衝撃的ではなかったのでしょうか。
パリの地下鉄は1900年(つまり万国博覧会の時)に第1号線が開通したそうです。
イギリスがチューブになって、フランスがメトロというのは、皮肉ですね…

■>moins haut
オーブ at 7/17(木) 04:52:11 No.paroparo-20030717042419

moins haut についてもう少しだけ・・。

シャルルビルの下水道はどうなっていたのでしょうね。
パリでは比較的早くから下水道は完備されていたようですが、機能していたのかどうかちょっと怪しいです。
日本のほうが発達していたとききます。高温多湿だから衛生には昔から気を配っていたのでしょう。
当時のロンドンは道の中央に下水の溝があったのですか。
それはかなり見た目が汚そうです。

さて、moins haut は下水道を表現したと考えていいですね。
で、ランボーのいる位置からみて moins haut ということなのですよね。
これで安心しました。
確かに日本語では moins haut というような言い方はあまりしませんよね。
たとえば、Aがアパートの4階に住んでいて、Bが3階に住んでいるとする。
日本語だと B は A よりも低いところに住んでいる、と言うけど、B は A よりも高くないところに住んでいる、とは言いませんね。
文法的には合っているのだけれど。

前にも言いましたが、普通は moins~ que で使いますよね。
だからいきなり moins haut が出てきたときは何と比べて高くないのかちょっと考えてしまいました。

■地下
オーブ at 7/17(木) 05:02:13 No.paroparo-20030717045432

>地下深くは、やはり安置室、そして、地獄に通じている場所ではないのでしょうか。

そうですね、ランボーらしい表現です。
「火の井戸」も地獄を案じさせますし。
安置室と地獄は、同じ地下でぞっとするような感じなので、ランボーがイメージを重ね合わせたのかも。
ロンドンには当時、もう地下鉄があったのですか!
ランボーはびっくりしたでしょうね~。

始めは、ランボーが実際ロンドンの地下のパブとかにいたのかと思いましたが、想像と考えたほうが自然かもしれませんね。

■世界の果て
オーブ at 7/17(木) 05:18:28 No.paroparo-20030717050458

世界の果ては子供時代の果て、つま子供時代の終わりととっていいでしょうか。
この詩には少年時代が書かれていません。
一度テリトリー(子供時代の果て)を外れたランボーはもう少年時代には戻れなくなったというでその理由がわかるような気がします。
青年といっても、まだ少年ともいえる年齢で、大人の世界には入れずさ迷っているのでしょうか。
大人になりきれない不安定さが感じられました。

捨て子については、私はただ単に孤独な子供という例えなのかな、と思っていました。
「みなしごたちのお年玉」と同じ感覚です。

■月と彗星、海とおとぎ話
オーブ at 7/17(木) 05:27:41 No.paroparo-20030717052216

C'est peut-etre sur ces plans que se rencontrent lunes et cometes, mers et fables.

ますます不思議な世界です
この地下が月と彗星、海とおとぎ話が出会うところなのだと、ランボーは言います
地球は丸いという認識から、地下のすぐ下は空になっていると考えたのか・・、具体的な何かの例えとももちろん考えられます。

■>月と彗星、海とおとぎ話
Parolemerde2001 at 7/18(金) 01:01:40 No.paroparo-20030718010052

なんか、意味不明の世界ですね。
テクスチュエル版にも、ポショテク版にも注はありませんでした。
子供の頃のおとぎの世界、神話の世界などのことなのでしょう。
月は同時にダイアナを暗示し、海はヴィーナスを暗示しているととることもできます。
月と彗星というのは、滅多に出会わないものということなのでしょうか。
軌道を考えるとそうなりますが、星占い的なイメージもあるのでしょうか。
海とおとぎ話(寓話)は、どのように出会うのでしょうか。
ヴィーナスの誕生をイメージしているのでしょうか。
例えば「大都会(これが大都会だ!…)」にも、ヴィーナスの誕生が出てきます。
それにしても、今までの4つの章と比べ、そっけない描写ですね。

■ Enfance 第5章 最後の節
オーブ at 7/19(土) 02:32:35 No.paroparo-20030719022547

Aux heures d'amertumes je m'imagine des boules de saphir, de metal. Je suis maitre du silence. Pourquoi une apparence de soupirail blemirait-elle au coin de la voute?

心痛む時間の中でおれは自分がサファイヤか金属の玉ではないかと
想像してみる。おれは沈黙の主人だ。
丸天井の片隅にある換気窓のように見えるものが
青白く光るのはなぜだろう。

ひとつ前の月と彗星、海とおとぎばなしが出会うところについてはまた何かあったら書き込みますね。皆様もよろしくおねがいします。

さて、いよいよ最後の節にきました。
でもここもちょっと意味不明ですね・・。
何かわかることがあれば教えてください。

■>>月と彗星
オーブ at 7/19(土) 02:44:53 No.paroparo-20030719023332

すみません、前後してしまいました。

月と彗星は、パロさんがおっしゃるようにめったに出会わないということから不思議な空間のことを言っているのかと考えました。
四次元とか、時空のひずみとかそういうところです。
地下(安置所)も不思議な空間と取れますよね、イメージ的に・・。
海とおとぎばなしは共通点がないように思えるのでちょっとわかりませんが・・。
この海は母親とは関係ないでしょうか。
ランボーは海を母親にたとえていましたね。
おとぎばなしはそのままで子供の世界ととりましたが、この二つにぴったりくるものがありません。

地下を現実の世界を超えた、空間とか時間とかそういう目に見えない世界にいることを想像していたのかな、と思いました。
地下とか、洞窟、日本ではいうなら押入れの中とか暗くて狭い空間はそんな世界を連想させますね。
不思議の世界につながっているような。
そういえばドラえもんは引き出しの中から出てきました・・。

■少年時代の墓 (第5章)
Parolemerde2001 at 7/19(土) 12:43:27 No.paroparo-20030719124247

この墓は、ランボーの墓ではなく、少年(幼年)ランボーの墓なのでしょう。
地下の墓よりさらに下の地球の中、マグマが燃えているかも知れない、あるいは、深い洞窟のようにぽっくり空が空いているかも知れない(青空の深淵)。
そこでなら、起りえないおとぎ話じみた事でも出会えるかも知れない。

この海を、同音の母親と連想で考えると、やはりおとぎ話からはとても隔たっていて、出会いそうにない組合せですね。
でも、現実の海、「マリーン」や「運動」で書かれた海であるなら、やはり、おとぎ話から遠いのでは。
少年の夢想の中の海、つまり「酔いどれ船」の海は、ここでなら、おとぎ話と出会える、つまり、地下深くが少年時代の夢想の空間であるから、そこで現実には起りそうもない出会いがある。

ここは、少年時代を埋葬する墓地なのでしょう。

■>少年時代の墓(第5章)
オーブ at 7/20(日) 01:06:32 No.paroparo-20030720004938

少年時代を葬る墓なのですね。
なるほど、納得です。
青空の深淵や、マグマ、おとぎばなしなどがつながってきました。
ランボーにとって少年時代の夢想の空間は地下深くにあったのですね。
「酔いどれ船」などの夢想の海は、この地下深くでおとぎ話と出会える。
それではランボーはこの夢想の海さえも少年時代とともにこの墓に埋葬してしまったのでしょうか。

最終章の最初に出てくる、
Aux heures d'amertumes
ランボーは悲しみとともに少年時代を埋葬したと考えてよいでしょうか。
amertume と言う単語は直訳すると、「苦しみ」です。
痛々しいですね。
なんとなくノスタルジーとか、切ないとかメランコリーというのではなく苦痛を伴っているような感じがしました。

■ニオイアラセイトウ
オーブ at 7/20(日) 01:28:23 No.paroparo-20030720012546

こんな HP を見つけました。(現在は存在しないようです)
ニオイアラセイトウは古い城壁や、岩の間に赤い花を咲かさせると言われています。
パロさんがおっしゃるように壁の中に埋葬された老人は戦いかなにかで虐殺された人々なのでは・・と思いました。

■サファイヤ、金属の玉?
オーブ at 7/22(火) 05:45:35 No.paroparo-20030722054148

みなさん、こんにちわ。

最後も意味不明ですね・・。
サファイヤや金属の玉に何か意味があるのかと思って調べてみましたがこれといって見つかりませんでした。
換気窓のようなところから差し込む青い光も?です。

■>サファイヤ、金属の玉
Parolemerde2001 at 7/22(火) 22:46:57 No.paroparo-20030722224550

これも、意味不明ですね。
誕生石とか調べてみましたが、解かりませんでした。
サファイアはブルーですね。メタルは、鈍い光なのでしょうか。
水晶玉とことなり、透き通ってないから、未来を映したりはしないのでしょうね。
青い光は、私は夜明け前の青い空の光だと考えています。
「母音」同様に、神の眼の光と読む評家もいますが、その場合でも、単なる神聖な光という意味ではないと思います。

■少年時代の最後
オーブ at 7/23(水) 00:06:32 No.paroparo-20030723000235

夜明け前の青い光は想像なのでしょうね。
というのも地下だと光は入ってこないでしょうから。
換気窓のようなものがちょっと気になりますが、地下にどのように取り付けられていたのかはわかりません。

ということでこの「少年時代」という詩は終わっています。
夜が終わったと同時に思い出から醒めたようです。

■ Enfance 第5章 感想
オーブ at 7/23(水) 01:40:33 No.paroparo-20030723012900

この詩をまとめることは今の段階ではできませんが、少し感想を述べたいです。
小さなシーンが5つつながって、紙芝居のような詩でした。
少年時代の童話の世界はイメージが目の前に浮かんできそうでした。
それに、一番印象深かったのがやはり最終章の第5章でしょうか。
ランボーの孤独と、やるせなさ、人生のちょっとした苦味のようなものを感じました。
不思議な世界に迷い込んだような詩だと思いました。

ということで、「少年時代」はとりあえず終わりということでよろしいでしょうか。
とはいっても、何かありましたら、いつでも書き込んでください。
私もまだ完璧に理解したわけではないので、わからないところは引き続き調べていこうと思っています。

次からは、"Conte"に移りたいと思います。

■ Conte 第一節
オーブ at 7/24(木) 01:23:51 No.paroparo-20030724003533

Conte
Un Prince était vexé de ne s'être employé jamais qu'à la perfection des générosités vulgaires. Il prévoyait d'étonnantes révolutions de l'amour, et soupçonnait ses femmes de pouvoir mieux que cette complaisance agrémentée de ciel et de luxe. Il voulait voir la vérité, l'heure du désir et de la satisfaction essentiels. Que ce fût ou non une aberration de piété, il voulut. Il possédait au moins un assez large pouvoir humain.

小話

ある王子が俗悪な施しの完璧しか努めなかったことに腹を立てていました。
彼は驚くべき愛の革命を予見し、彼の女たちは
空と豪奢の楽しみのこのうぬぼれよりももっと、良いことができるのではないかと疑っていました。
彼は真実が見たかったのです。
本質的な欲望と満足のときが知りたかったのです。信心の錯乱ではないことを彼は望んでいました。
彼は少なくとも、十分すぎるほど大きな人間の力を持っていました。

(訳 オーブ 23. Juillet 2003)

のっけから訳がよくわからなかったです。(^^;
直訳だとこれでいいでしょうか。
パロさんの訳を読んでだいたいはわかりましたが、ランボーのいわんとして言ることがちょっとつかめていません。

順を追ってみてみますね。

1. Un Prince était vexé de ne s'être employé jamais qu'à la perfection des générosités vulgaires.

まずこの構文なのですが、ne ~que で、~しか~ないと考えました。
jamais の訳はどうしていいのかわからなかったのではっきりとは訳していません。
la perfection des générosités vulgaires が具体的に何を指すのかがわかりません。

2. vexer は傷つく、気分を害する、むっとするですが、どれも合わなかったのでそれらに近い、「腹を立てる」にしてみました。

3. Que ce fût ou non une aberration de piété, il voulut. は、普通の文だと、
Il voulut que ce futou non une aberration de piete. ですね。
でも non のこの使い方は初めて見ました。

出だしから不調です。(^^;
その他、なんでもいいのでわかることがあれば教えてください。

■ Enfance 第5章 補足
Parolemerde2001 at 7/24(木) 01:24:24 No.paroparo-20030724012311

換気窓ですが、子供の頃見た古いビルの地下室で、酸欠にならないように(?)地上に繋がる空気の通路があり、管などで地上に出たところで、ゴミや雨が入らないように、格子や屋根がついていたものを見た記憶があります。
でも、一般的なことかどうか解かりません。
今では、空調のパイプなどが配備され、光は入ってこないでしょうが、昔の単純な換気設備では、ぼんやりと光が見えることもあったのでは。
ですから、この地下室は、それほど深くないと思います。
実際に見た地下室から、地下深い安置室を夢想したような気がします。

これは、根拠のない私の勝手な想像です。
サファイアのブルーは、水や海を連想させます。
金属は、鉄など、地球の核を連想させます。
いずれも、地球のイメージのように思えます。

■>Enfance 第5章 最後の節 補足
オーブ at 7/25(金) 01:44:17 No.paroparo-20030725013830

地下からでもうっすらと光が見えることがあったのですね。
現代の地下だとかなり深いし、地下といえば地下鉄、ショッピング街、レストラン街を連想してしまうのでよけいにピンときませんでした。
たとえば、私は見たことも入ったこともありませんが、昔の家だと地下があって物置小屋になっていますよね。はしごをつたって降りていくような。
特にアメリカの映画でよく見ます。
ああいう感じかもしれませんね。あれだとそんなに深くないだろうし、うっすら光が見えるかもしれません。

実際には深い地下にいたわけではなさそうですね。

■すみません・・
オーブ at 7/25(金) 01:47:25 No.paroparo-20030725014526

パロさんがご覧になったのは地下の換気窓でした。
またはやとちりで間違った返事をしてしまいました。

パロさんがごらんになった地下の換気窓から朝になると、光が見えたのかもしれませんが・・。

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