イリュミナスィオン
La Fée - Absinthe
Doll & Objet : Hiroko Igeta, Photo : Kunio Monji
エレーヌのために、星の沈黙の中の汚れのない影と冷ややかなきらめきが装飾的な樹液と共謀した。夏の激しい暑さは鳴かない鳥たちに託され、必要とされる無気力は死んだ愛と衰弱した香りの入江をゆく値の無い喪の小舟に託された。
―林の廃墟の下を流れる急流のざわめきに混じる樵の妻たちの歌の時が過ぎ、谷間に木霊する家畜の鐘の音の時も、草原の呼び声の時も過ぎ―
エレーヌの幼い日のために毛皮と影が震えた―貧しい人々の胸も、天の伝説も。
そして、高貴な輝きよりも、冷たい感応よりも、比類のない装飾と時の歓びよりも、さらに優れた彼女の眼と彼女の踊り。
注)
手書き原稿では、タイトル「フェアリー」の上と下に、I と見られる書込みがあります。続く「 II 戦争 Geuerre 」とともにまとめる意図があったのでしょうか、それともこの計画は破棄されたのでしょうか。見えてきません。ここでは、慣例に従い、「フェアリー」と「戦争」を別の詩として扱います。
第2節の文末は、手書き原稿写真版で見るとピリオドがなく、ティレ(―)で終わっています。
フランス語テキスト
翻訳:門司 邦雄
掲載:2008年8月14日、2020年11月8日
緑の妖精と白い妖精
アブサンの広告ポスター(左)、アブサンの入ったグラス(右)
イメージフォト glow というタイトルで、グラスの背後には妖精が見える
Advertisement of Absinthe Robette (Left) & A Glass of Absinthe (Right)
(画像左は Wikimedia より、右は出所不明)
この詩のタイトルは、英語の「妖精 Fairy 」です。『イリュミナスィオン』に3つある英語のタイトルの詩のひとつです。
主人公である妖精のエレーヌはフランス語読みであり、ギリシア神話のヘレン、シェイクスピアの「真夏の夜の夢」のヘレナ、エドガー・アラン・ポーの詩の「ヘレンに」からイメージされたと見る人もいます。S. ベルナールは、ポーの「ヘレンに」とマラルメの「エロディアード」の影響を指摘しています。1872年にマラルメの仏訳によるポーの「ヘレンに」がルネサンス誌に発表されており、ランボーがそれを見たと考えることも可能です。
ランボーは、フランス語では発音されない H (アッシュ)で始まる女性の名前を象徴化したキャラクターとして『イリュミナスィオン』の中で使っています。オルタンス(「 H 」)、アンリカ(「労働者」)です。このエレーヌも H から始まっています。ギリシア神話のヘレンは、スパルタ王妃レダに神のゼウスが白鳥の姿になって交わり孕ませた不倫の子で、絶世の美女です。神と人との禁断の愛欲の果実は、この詩の主人公にふさわしいと感じます。
英語の fairy は、フランス語では fée です。もっとも、英語の fairy は語源的にはフランス語で、元々の elf にとって代わったとされています(注)。緑の妖精 fée verte は、幻覚作用のあるリキュール、アブサンのことであり、白い妖精 fée blanche は、麻薬のことです。ランボーは1872年6月ドラエーへ手紙の中で、「アブゾンフ学院、万歳!」と書いています。
見える者ランボーは少年時代あるいは幼年時代を、幻覚的に再発見します(「少年時代」の I ~ IV、「フラーズ」)が、その禁断の果実に導く女妖精が Fairy なのでしょう。この詩は英語のタイトルが使われていることから、ロンドンに行ってからまとめられた作品と考えられます。イギリスでシェイクスピアなどケルト文化の妖精の世界を取り入れた文学に接したことも影響していると思います。同じ『イリュミナスィオン』中の「ボトム」はシェイクスピアの「真夏の夜の夢」の登場人物の名前から取られたタイトルとされています。
最初の節で sève は「樹液」と翻訳されています。フランス語の意味では維管束植物(シダ類・種子植物)の体中を流れる液体を指しています。根から吸い上げられる液体( ascendante )と葉から降りてくる液体( descendante )の両方を指します。麻や芥子の中には麻薬となる成分が流れています。アブサンの幻覚作用もニガヨモギの成分によるものです。この節は、どことなく初期詩編の「オフェーリア」の情景を連想させます。この一節だけ、焼け付くような死を感じさせる情景で、アブサンと麻薬による幻覚体験を感じます。続く第2節からは、幻覚による夢幻的な情景が展開されます。
第2節は、エレーヌが林の中から草原(ステップ)に出てくるまでが描かれます。そのまま第3節に続きます。つまりフェアリーは森の中で生まれ、都市に出てきます。「毛皮」は裕福な人々という意味なのでしょうか。原文は frisosonnèrent les fourrures となっており、f と r の音の繰り返しを効果として使っていると思います。豊かな人々に対し貧しい人々、影に対し天(空)というように、この詩全体に光と闇、静と動、暑さと冷たさいう対位法的な構成が貫かれています。この対位法の感覚を実現したのは、麻薬やアブサンによる幻覚でしょうか。
最後の行の「装飾・舞台 décor 」は、装飾、舞台装置の意味です。最高の演劇あるいは歌劇よりも、エレーヌの魅力が、容貌・容姿(眼つまりビジュアル)と動き(踊り)が、優れているという意味でしょう。「大安売り」の品目のひとつに、「ファンタジー féeries 」、つまり「妖精の国」「夢幻劇」があります。
『イリュミナスィオン』中でも、特に美しく描かれた詩です。そして、破局も亀裂もなく終わっている無の詩でもあります。主人公が無と死から生まれて夢幻に導くエレーヌだからでしょうか。
私は、この詩は『イリュミナスィオン』中、比較的早い時期の詩と見ています。続く「戦争」は、「人生 III 」と「出発」とも類似していて、『イリュミナスィオン』の後半期に書かれたと思われます。ランボーは、この二つの詩を、あるいは他にも書く予定だったかもしれませんが、なぜ結びつけようとしたのでしょうか。
なお、『イリュミナスィオン』の手書き原稿にふられた通し番号は、誰がつけたものか確定されていないそうです。ランボーはこの詩集をまとめた時、時空を往き来できる形を意図したのかも知れません。
解読:門司 邦雄
掲載:2008年8月14日、2020年11月8日
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