イリュミナスィオン

Snowing in Moji Port, February 12, 2018 - Photo : Kunio Monji

Illuminations

Génie
魔神

 泡立つ冬にも、ざわめく夏にも、あの家を開け放ったのだから、彼は愛情と現在だ―飲物と食物を清めたのは彼だ―過ぎ去りゆく場所の魅惑と、立ち拝む場所の超人的な歓びが彼だ―彼は愛と力、愛情と未来、おれたちは怒りと倦怠の中に立ち、嵐の空と恍惚にはためく旗々の中を通り過ぎるのを見るのだ。(訳注1)
 彼は愛、新たに創り出された完璧な尺度、驚くべき思いもよらぬ思想、永遠なのだ:彼は運命の力により愛される機械だ。おれたちはみな、彼の譲歩とおれたちの譲歩を恐れた:おお、おれたちの健康の享受、おれたちの能力の飛躍、彼への利己的な愛情と熱狂、―彼こそは己の無限の命のためにおれたちを愛するのだ…
 おれたちが彼を思い出せば、彼は彼方からやってくる…もし「崇拝」が去りゆけば、彼の「約束」が鳴り響くのだ:"退け、この迷信、この古い体、この世帯とこの年代。この時代はすでに滅びたのだ!"
 彼は天に昇ったりはしないのだ、天から再臨しもしないのだ、女たちの怒りと男たちの馬鹿騒ぎとあらゆる罪人の贖罪を成就したりもしないのだ:彼がいて、彼が愛されれば、そのことは、もうなされたのだから。
 おお、彼の息吹、彼の頭脳(訳注2)、彼の走り;形と動きの完成の恐るべき速度。
 おお、精神の豊かさと宇宙の広大さよ!
 彼の体!夢見られた解放、新しい暴力に交差された恩寵の破壊!
 彼の眼差し、彼の眼差し!続いて再起した昔の屈従と苦痛のすべて。
 彼の日!もがきうめくあらゆる苦しみの最も激しい音楽の中での廃止。
 彼の歩み!昔の侵略よりさらに巨大な移動。
 おお、彼とおれたち!失われた愛よりもさらに好意に満ちた奢りよ。
 おお、世界よ!そして新しい不幸の清らかな歌よ!
 彼はおれたちみんなを知り、おれたちみんなを愛した、この冬の夜、岬から岬へ、吹き荒れる極地から城へ、群衆から浜辺へ、眼差しから眼差しへ、力と感情は疲れ果てても、彼を呼び、彼に会い、彼を送り返そう。そして、潮の下にも雪の荒野の頂にも、追い求めていこう、彼の眼差しを、―彼の息吹を、―彼の体を、―彼の日を。

フランス語テキスト

翻訳:門司 邦雄
掲載:1998年12月、2001年10月11日、2020年11月17日


ランボーのホワイトクリスマス


「冬来ると誰をや告げつら北国の 北国のしめじが森のな祢宜が告げつる
伊勢の国高天原にな吹くあられ 峰は雪ほなか霞な裾は雨…」
長野県下伊那郡上村程野 霜月まつり「神楽歌」

 クリスマス・イブ、灰色の空は吹き荒れ、雪が泡立つように降り始め、町の中心に立つ古い教会、人々の賛美歌の歌声や鐘の音は風の音と雪に吹き消され、世界は新しい純白の衣を身にまとう。
「泡立つ冬にも、ざわめく夏にも、あの家を開け放ったのだから、彼は愛情と現在だ―飲物と食物を清めたのは彼だ―過ぎ去りゆく場所の魅惑と、立ち拝む場所の超人的な歓びが彼だ」(立ち拝む場所「 station 」はキリスト教の用法から来ています)
 突然の吹雪が、すべての物音を消し、教会(「あの家」)を開け放ち、世界を清める。この奇跡を行うのは教会の神、イエス・キリストではなく、大自然と一体になった新しい今の神だ。世界は新しい純白の衣を身にまとい、白い荒野を風が吹きすさぶ。

 ヨーロッパでは、雪は病んだ自然とされてきたが、モネが初めて美しい雪景色として描いたそうです(五木寛之)。おそらくは、1869年のモネの「かささぎ」のことでしょう。ランボーの「魔神」も、新しい雪景色の感覚と捉えることができるでしょう。それは神が人の為に作った自然、「自然とは善の光景」(「悪い血筋」)ではなく、神の無い、あるいは人の為に作られたのではない自然、自ら泡立つ自然なのです。

 「彼は愛と力、愛情と未来、おれたちは怒りと倦怠の中に立ち、嵐の空と恍惚にはためく旗々の中を通り過ぎるのを見るのだ。」
 「彼」は暗い夜空を雪雲に乗って疾風のように走り抜けてゆく。ここにパリ・コミューンの記憶を見ることもできる。
 「彼は愛、新たに創り出された完璧な尺度、驚くべき思いもよらぬ思想、永遠なのだ:彼は運命の力により愛される機械だ。おれたちはみな、彼の譲歩とおれたちの譲歩を恐れた:おお、おれたちの健康の享受、おれたちの能力の飛躍、彼への利己的な愛情と熱狂、―彼こそは己の無限の命のためにおれたちを愛するのだ…」
 「彼」は、キリストに代わる新しい神であり、新しい愛だ。
 原題 Genie は「精霊」と訳されることが多いのですが、ここではキリストではない神という意味で「魔神」と訳しました。人も神も自分を譲ることなく互いを受け入れます。神は無限なるがゆえに人を愛します。ランボーはこの詩で人に信仰を強いる神ではなく、人を解き放つ神を描き出します。「思想」は raison で、一般的には「理性」と訳されますが、意味が取りにくいので「思想」と訳しました。元々は、フランス革命時、ジャコバン革命政府の過激派がキリスト教の神に対抗して作り出した、人間の理性 raison への信仰が源になっています。

 「彼は天に昇ったりはしないのだ、天から再臨しもしないのだ、女たちの怒りと男たちの馬鹿騒ぎとあらゆる罪人の贖罪を成就したりもしないのだ:彼がいて、彼が愛されれば、そのことは、もうなされたのだから。」
 神の証明とされるキリスト再臨の奇跡は必要としない。「彼」はいつでもどこからでも現れて、即座に人々を苦しみから解放する。この部分は、『地獄での一季節(地獄の季節)』の「地獄の夜」の次の部分を連想させます。「私を信じなさい。信仰は心を軽くし、導き、癒すのです。みんな、おいで、―幼い子どもたちも―私はあなたがたを慰めたいのです。あなたがたのために心を広めたいのです、―この素晴らしい心を! ―かわいそうな人々、労働者よ! 私は祈りは要求しません。あなたがたが信頼さえしてくれれば、私は幸せになるのです。」
 ヴェルレーヌが詩の中で書いているように、ランボーは「見える者」となり、「彼」となることにより、「天使あるいは預言者」として「神」を具現する者になろうとしたと考えることができるでしょう。

 「おお、彼の息吹、彼の頭脳、彼の走り;形と動きの完成の恐るべき速度。
 おお、精神の豊かさと宇宙の広大さよ!」
 ここからは、新しい神、新しいメシアの姿が語られます。「恩寵」とは神の加護のことです。古い神の加護は新しい神の力により破壊されます。
 「彼の日!もがきうめくあらゆる苦しみの最も激しい音楽の中での廃止。」
 ランボーは、『イリュミナスィオン』の「人生」の中で「愛の鍵のようなある物を発見した音楽家でもある。」と書いています。詩の意味だけでなく、詩のランボー独自の音楽性が後に多くのロック・ミュージシャンに影響を与えました。
 「おお、彼とおれたち!失われた愛よりもさらに好意に満ちた奢りよ。」
 ここの愛はフランス語の charite (シャリテ)、英語ではチャリティで、正確には愛徳という訳語になり、神と人に対するキリスト教的愛、同胞愛、人間愛を意味します。私は、基本的に amour は具体的な対象への愛で、charite は普遍的な愛、与える愛と考えています。新しい愛は施し・施されるものではなく、誇りを持って共に持つものです。

 「おお、世界よ!そして新しい不幸の清らかな歌よ!」
 新しい神は、この世の全てのものを解き放ちます。それは、おそらく世界をあるがままの姿で受け入れ見つめ直すことから始まります。
 「彼はおれたちみんなを知り、おれたちみんなを愛した、この冬の夜、岬から岬へ、吹き荒れる極地から城へ、群衆から浜辺へ、眼差しから眼差しへ、力と感情は疲れ果てても、彼を呼び、彼に会い、彼を送り返そう。そして、潮の下にも雪の荒野の頂にも、追い求めていこう、彼の眼差しを、―彼の息吹を、―彼の体を、―彼の日を。」
 原文で読むと、音楽的なリズムを強く感じるフィナーレです。「彼」は、地球を覆う現代の情報通信網のように、瞬時に世界を駆けめぐります。グラハム・ベルの電話の発明は1872年から取り組み、1876年に通話実験に成功しました。マルコニーの無線の発明は1895年です。ランボーが新しい通信を、新しい社会の夢として見ても自然な時代だったと思います。

 1872年、ランボーはヴェルレーヌと一緒にロンドンに滞在しますが、12月に故郷のフランス、シャルルヴィルの実家に戻ります。私は、この時にこの詩が書かれたのではないかと考えています。翌年、彼は再びヴェルレーヌとともにロンドンに滞在しますが、やがて別れ話がこじれてヴェルレーヌがランボーの左手首をピストルで撃つブルュッセル事件が起こります。弾丸はランボーの左手首と少年の心を貫通し、ランボーはロッシュの実家に戻り『地獄での一季節』を書き上げます。
 「徹底的に現代的でなければならない。賛美歌はない。(「永別」より)」
 ランボーは古いメシアとも、来たるべきメシアとも別れを告げます。同時に、ランボーの自然への信仰はしだいに消滅していきます。そして『地獄での一季節』の後も書きつづけられた『イリュミナスィオン』に描かれる新しい神は、自然ではなく、都市という人工の、しかも人間性を越えた巨大なシステムだったと思われます。

訳注1) 原文は、…nous, debout dans les rages et les ennuis, nous voyons… となっています。このカンマで挟まれた部分(「怒りと倦怠の中に立ちながら」)は始めの nous (おれたち)の説明です。次の nous は、前の nous をもう一度言い返しているとは取りにくいので、nous nous voir で、代名動詞と解釈しました。
訳注2) 原詩では、なぜか複数になっています。

解読:門司 邦雄
掲載:1998年12月、2001年10月11日、2008年10月29日、2020年11月17日

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