イリュミナスィオン

福岡市西区愛宕の夕景、右端下は地下鉄空港線
Evening view of Atago, Nishi-ku, Fukuoka, the lower right is the Subway Kuko Line
January 5, 2015 - Photo : Kunio Monji

Illuminations

Métropolitain
首都の

 インディゴの海峡からオシアンの海にまで、果物屋で食べ物を買う若く貧しい家族たちが待ちきれずに住みついた水晶の大通りが、ワインレッドの空に洗われたバラ色とオレンジ色の砂の上に高まり交差した。金持はいない。―町だ!
 喪服を着た海の神なら作りうる、この上なく不吉な黒い煙から作られた、たわみ、戻り、降りてくる空に、ぞっとする群れをなしていく筋にも拡がるスモッグの層とともに、アスファルトの砂漠から一目散に敗走する兜、車輪、小舟、馬の尻。―戦だ!
 頭を上げろ、木のアーチ橋だ。サマリアの最後の菜園、冷たい夜風の吹きつけるランタンの下の赤く照らされた仮面たち、川下にはざわめく衣をまとった愚かな水の精、エンドウ豆の畑の中の光る頭蓋骨―さらに、その他の魔術幻灯―田舎だ。
 木立をかろうじて遮っている柵や塀に囲まれた道、そして心とか修道女とか呼ばれる残忍な花々、ガタンゴトンと長くてうんざりするダマスカス、―今でも古代の音楽を受け入れるのにふさわしい超ライン川沿岸、日本、パラグアイの夢幻の貴族階級の所有地―そこには、もはやすでに永遠に開かない宿屋もある―王女たちもいる、そして、もし君がひどく打ちひしがれていなければ、星座の研究―空だ。
 雪の輝き、緑の唇、氷、黒い旗と青い光線、極地の太陽の緋色の香り、その中で君たちが「彼女」ともがいた朝―君の力。

フランス語テキスト

翻訳:門司 邦雄
掲載:2001年11月25日、2004年9月24日


ランボーの銀河鉄道


 夕暮れのロンドンの町に、地中から走り出た汽車は夕暮れから逃げるように、郊外に、そして田舎にと、暗い夜空に煙を吐き出しながら走りつづけます。闇夜の中に点在するわずかな灯りが夢幻の景色を思い出させます。旅人はどこに行くのでしょうか。もはや開かない宿屋を求めて銀河のレールを走るのでしょうか。それとも、夜明け前の暗い夜空に浮かぶ記憶の中に消えて行くのでしょうか。走りつづける夜汽車から、町の灯りが見え始めると人はほっとします。しかし、この「首都の鉄道」は、そのタイトルとは裏腹に、町から田舎に、夜の闇に向かって、そして過去の記憶に向かって走りつづけます。

 この詩のタイトル「首都の」の原題は「メトロポリタン Métropolitain 」です。一般的には「首都の」という形容詞なので、そのままのタイトルにしました。修飾するものを補って解釈し、「首都の景」「首都の眺め」という邦訳タイトルもあります。名詞としての「メトロポリタン」には、地下鉄( chemin de fer métropolitain )、あるいは大司教という意味があります。いわゆる Métro がフランスで地下鉄と言う意味で使われていたのは、だいぶ後のことです。私は、イギリスのアンダーウッドの説のように当時のロンドンのメトロポリタン・レイルウェイのことと思います。メトロポリタン・レイルウェイ、つまり「首都の鉄道」は、蒸気機関車に引かれ、地上を走る所もあり、地下のトンネルの間には煙り抜きの切り通し状の部分もあったそうです。屋根の上に、さらに人を乗せる席がある二階建の車両もありました。さぞ煙かったことでしょう。1874年7月に母とロンドンのランボーを訪ねた妹ヴィタリーが高架線(鉄道)のことを日記に書いています。これらのことを前提としてこの詩を読むと、夕暮れのロンドンから郊外に向かって走る鉄道の車窓から見たさまざまな景色を、ランボーが印象的にまとめたことがわかります。

1861年ロンドン初の地下鉄路線であるメトロポリタン・レイルウェイ(鉄道)建設工事の様子
Construction of the Metropolitan Railway, London's first Underground line, in 1861
(画像は Wikimedia より)

 第1節はガス灯の点々と灯る夕焼けのロンドンに汽車が地下から地上に、あるいは地上から高架へと走っていくときの車窓からのシーンでしょう。「水晶」は、水晶、ガラス(ショーウィンドー)、あるいは氷とも解釈されています。「オシアン」は3世紀のスコットランドの吟遊詩人であり、次の節の「海の神(オセアン、英語読みではオーシャン)」との音の類似と、北の海の連想で使われています。「インディゴの海峡」とはテムズ川のことです。インディゴは染料のインド藍であり、この詩が書かれた時点では、まだ合成の染料は発明されていなかったので、イギリスのインド植民地支配を暗示した表現と思われます。「果物屋」は frutiers ですが、野菜も売っていました。日本語の果物屋にはどうしても高い商品というイメージが付いてまわります。しかし、ヴェルレーヌが1872年の手紙の中で「ここ(ロンドン)では2スーでオレンジ3個、そして(甘い)洋ナシが数え切れないほど買える。」と書いていますから、特に安かったのかも知れません。当時のイギリスには外国からの安い農産物が輸入されてデフレの原因となりました。スーは20分の1フランです。「金持ちはいない」とは、貴族や大土地所有者、あるいは資本家、つまり富豪はいないという意味でしょう。

 第2節は、蒸気機関車の煙と、排煙によるスモッグに覆われた当時のロンドンの空を描いています。近代のオケアノス(ギリシア神話の大洋神)は、喪服を着た黒い蒸気船です。そして、船は陸に上がり蒸気機関車となります。この節は新しい交通機関と新しい都市、つまり「アスファルトの砂漠」が、古い交通機関と古い町を追い散らしていく戦いが描かれています。第1節と併せてランボーの現代的な描写感覚が顕著な部分です。

 第3節は日没後のロンドン郊外の月の光に、あるいは点在する灯りに照らされた田園風景を描いています。頭上にかかった橋をきっかけにイメージが展開されています。「赤く照らされた enluminés 」は「極彩色」と訳することもできますが、ここではランタンの光で照らし出された色と解釈しました。「水の精 l'ondine 」は、ざわめく川のことですが、例えば初期詩編の「オフェーリア」のように、当時のイギリスでは愛を成就できずに水に溺れ死ぬ女性、あるいはセイレーンのように男を虜にする水の精をテーマとした絵画が流行していました。このこともイメージしていたのかも知れません。

 第4節は郊外の森を抜ける鉄道の描写ではじまります。線路の両側が植林されていたのかも知れません。線路の両側が柵で囲まれていて、頭上にははみ出した木々の枝が広がっています。「心(クール)」と「修道女(スール)」は音を合わせています。薄暗がりの中にほの白く浮かび上がっている線路沿いの花からの連想と思われます。暗い教会の内部の身廊の周りにほの白く見える修道女を思い出してイメージしたのでしょうか。ダマスカスはシリアアラブ共和国の首都ですが、古代最古の都市のひとつでイスラム教の第4の聖地とされています。聖地の参道の周りに咲く残忍な花が、心と修道女なのでしょうか。「うんざりするダマスカス」は、原語で Damas damnant で、発音はダマスダナンとなります。鉄道のレールの音を表現したものと思われます。この音は同時に「古代の音楽」も意味していると思われます。普通名詞 damas は、いわゆるダマスク織として、ダマスカス由来の織物を指します。亜麻の平織り、綾織に織り模様を施した紋織物のことですが、ダマスカスで発達した絹の紋織物、ダマスク風の家庭用リネン類にも使われます。ランボーは初期詩編の普仏戦争をテーマとした「悪 Le Mal 」の中で、「祭壇のダマスク織のクロス ( les ) nappes damassees des autels 」という言葉を使っており、この詩でも宗教的な意味合いを暗示していると考えられます。教会の入り口から祭壇に向かう中央の身廊 grande nef のイメージを線路の景色に見ているように思えます。残忍な花の咲くダマスカスへの道はうんざりするほど遠いようです。「超ライン川沿岸」以降、どんどん東に進んでいきます。「超ライン川沿岸」は、フランスから見てライン川の東という意味、つまりフランスの力の及ばなかった地域です。これ以降は窓の上に広がる星空からの初期詩編の頃の連想です。初期詩編の「みどりの酒場」は、すでに後期韻文詩編の「渇きの喜劇」の「みじめな夢」で「緑の宿屋がこのおれに門を開けてるはずもない。」と書かれますが、この詩では「もはやすでに永遠に開かない宿屋」となってしまいます。「星座」(原語では星の複数)は、不定冠詞と合わせて des astres (デザストル)となり、篠原義近の指摘のように、災難の deésastre (デザストル)と同じ発音で、二重の意味を持たせたと思われます。「星の勉強」、つまり文学表現という非現実的な勉強は、災いなんだという意味なのでしょう。

 第5節は、夜明と蒸気機関車の、特に火の印象を過去の映像と混ぜて表現しているのでしょうか。「彼女」は『イリュミナスィオン』の「苦悩」、あるいは『地獄での一季節(地獄の季節)』の「永別」の中にも、同じ表現が見られます。「彼女」が誰なのか、何を表しているのか、死、キリスト教、体制など様々な解釈があります。いずれにせよ、ここではかなり漠然と使われています。「氷」「極地」は見える者の詩の世界をイメージさせます。「君たち」つまりランボーとヴェルレーヌが社会に反抗して詩を書いて過ごした時期も過去になり、今ではランボー自身の力となっているという意味でしょう。第4節の「君」と第5節の「君」は親しい者を指す単数の tu が使われていて、ランボー自身のことと思われます。この節はこの詩の中でもっとも抽象的であり、今までのような具体的なシーンが見当たりません。ランボーの銀河鉄道は夜明け前の闇の中に消えていきます。

 なお、この詩の原稿の後半部分(第3節「頭を上げろ」以降)は、「大都会(2)(アクロポリス)」と同様、ジェルマン・ヌーヴォーの手で清書されていて、『イリュミナスィオン』の制作年代決定のひとつの根拠となっています。

解読:門司 邦雄
掲載:2001年11月25日、2004年9月24日、2020年10月30日

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