イリュミナスィオン

Illuminations

Nocturne vulgaire
低俗な夜想曲

 風がひと吹き、仕切り壁にオペラ舞台のような穴をあけ、―腐食した屋根屋根の回転軸をかき回し、―暖炉の境を吹き散らし、―十字窓を陰らせる。―ブドウの木に伝わり、ガーゴイルに足をかけ、―ぼくはこの豪華な四輪馬車に降り立った、凸面ガラスと、膨らんだ羽目板とゆがんだソファで、この馬車がいつの時代かすぐわかる、―ぽつんと一台の、ぼくの眠りの霊柩車、ぼくの愚かさの牧人小屋、馬車は消えた大通りの芝の上で向きを変える。そして、右の窓ガラスの上の欠けたところに、月のような青白い顔や、木の葉や、乳房がくるくる回っている、
―とても濃い緑と青が、その映像に侵入する。砂利がまだらの辺りで馬を外す。
―ここで、口笛を吹いてあの嵐を呼ぶのか、そしてソドムたちを―さらにソリムたちを、―猛獣たちと軍隊を、
―(夢想の御者と獣たちは最も息苦しい樹林の下で再び馬車を駆るのか、ぼくを絹の泉に目まで沈めるために)。
 ―そして、ぼくたちは鞭打たれて送り出される、ざわめく水とこぼれた飲物を横切り、猟犬たちに追い詰められて吼え声の上を転がる……
 ―風がひと吹き、暖炉の境を吹き散らす


フランス語テキスト

翻訳:門司 邦雄
掲載:2005年9月27日、2020年10月26日


カボチャの霊柩車


 タイトル、Nocturne vulgaire の nocturne は、元々はロマン派のピアノの小曲のことですが、「夜想曲(ノクターン)」として、夜をイメージした静かな曲を意味するようになりました。「夜景画」という意味もあります。ヴェルレーヌの処女詩集『土星びとの詩(1866)』には「パリの夜想曲 Nocturne parisien 」という長編の韻文詩があり、セーヌ川を描いています。
 ランボーのこの詩は、韻文詩ではありませんが、絵画というより映像に近く、オペラ風(オペラ舞台のような)という比喩も使われているので、「夜想曲」と訳しました。「低俗な」は、しばしば指摘されるように、この詩は麻薬(ハシッシュ)とアルコールの幻覚を描いていて、「誰にでもたやすく手が届く」という意味と思います。

 この詩が幻覚であれば、具体的な事象を求めることは難しくなります。風が吹いて、仕切りの板か何かが動いたのでしょうか、暖炉が見え、その炎が揺らめき、窓が暗くなります。「オペラ(舞台)のような opéradique 」は、英語の operatic からのランボーの造語とされていましたが、アンダーウッドがゴンクール兄弟が既に使用していたをこと指摘しました。「陰らせる」には、天体が食するという意味の動詞 éclipser が使われています。「吹き散らす(追い散らす) disperse 」は、始めに書いた言葉の上に上書きされています。始めに書いた言葉を P. ブリュネルは「陰らせる éclipse 」と読んでいます。一方、C. ジャンコラは「追い散らす disperse 」と書き、後に「狩り立てる chasse 」と訂正したと読んでいます。私も手書き原稿の写真版(テクスチュエル版)を見ましたが、判りませんでした。この詩の最後にも同じ描写があり「吹き散らす disperse 」が使われています。直訳すれば「暖炉の境」と読める部分を、ランボーBBSに参加している岡村聡子は、「暖炉の消えそうな炎」と訳しています。「暖炉 foyer 」には、「炎」「家庭」などの意味もあり、「境」と訳した原詩の「 limite (境界・限界)」には、期限という意味もあります。原詩の「暖炉 foyers 」も「期限 limites 」も複数なので、燃え尽きそうな暖炉の炎が風に揺らいでいると情景を見ることも出来るように思いました。ブドウの木は雨樋と思われます。雨樋に付いた水落し(樋嘴(ひはし))は、怪獣の形をしたゴシックのガーゴイルに変身しています。そして、詩人は夢幻の霊柩車に降り立ちました。曲がりくねったこの馬車は時代物というだけではなく、「全てが曲線のシンフォニーとして形作られた18世紀の馬車」( J.-P. リシャール)であり、優雅で女性的で、どこか暗く神秘でエロティックです。シンデレラのカボチャの馬車のように優雅で女性的な馬車も、ランボーには「低俗な」という形容詞の対象なのでしょう。「牧人小屋」は、ヴィニーの詩「牧人小屋 Maison du berger 」(= roulotte:旅芸人など家代わりに使う大型馬車/ジャンコラ)から来ていると指摘されています。馬車の窓から見えるのは、月光の中でざわめく木の葉と乳房の幻覚なのでしょう。そして、強い色が幻覚に侵入して、夢幻の霊柩車は止まります。そこが馬車の行き着く場所だったのでしょうか。

 馬車が停車して、ランボーの欲望の幻覚が暴力的に変質していきます。ソドムは聖書に出てくる都市で、その退廃により神に滅ぼされます。ソリムはエルサレムの別称で「悪い血筋」にも出てきます。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であるとともに、常に戦争(紛争)と破壊の地でもありました。ランボーは両都市を複数にしています。都市そのものというより、象徴的・群衆的な意味合いで書いたのではないかと考えています。なお、ソドムから来た言葉、ソドミーが表しているように、同性愛者という意味も暗示していると思います。
 (  )で挿入された部分は、実際の幻覚体験ではなく、口笛で呼び寄せた嵐の巻き起こす夢想なのでしょう。「夢想の」は御者にもかかると読めます。「馬車馬 bêtes de somme 」のもじりという指摘もあります。夢想という言葉は、現実ではなく架空の馬車を連想させるだけでなく、この幻覚の非現実性を暗示しています。「再び馬車を駆るのか」と訳したところは、reprendront-ils であり、直訳すると「再び始める」となります。前に馬を外しましたから、ここで再び馬を付け、御者が乗込み、馬車を走らせるという意味なのでしょう。「絹の泉に目まで沈める」という言葉には、性的陶酔とマゾヒスムと死を暗示しています。破壊から、自滅へと欲望が変質します。篠原義近は、ベッドに寝て、掛けぶとんを眼のところまでひきかぶっている姿を連想させる(ランボー『イリュミナシオン幻視』)と具体的な考察もしています。
 そして、突然、「ぼく」から「ぼくたち」へ変わります。酔っ払い、世間から追い立てられているランボーとヴェルレーヌの姿でしょうか。
 暖炉の炎が揺らめいて、幻覚の旅路が終ります。死の馬車の夢想は「轍」にも描かれますが、「低俗な夜想曲」では、幻覚体験を描きながら、覚めた感覚で自分の幼稚で愚かな欲望を、倒錯した欲望を現像しているように見えます。タイトルの形容詞「低俗な」は、それを要約していると思われます。

 A. アダンは、同じ『イリュミナスィオン』中の「眠れない夜」との類似、また、ボードレールの「人工楽園」の影響を指摘しています。この詩はハシッシュ(大麻)による低俗な幻覚を描いたというのが、一般的な説となっています。
 私は、この詩は1872年の秋から初冬にかけて書かれたと思います。
 この詩の改行、行頭の字下げなどのスタイルは、テキストにより異なる箇所があるので、手書き原稿の写真版(テクスチュエル版)を参考にしました。

解読:門司 邦雄
掲載:2005年9月27日、2020年10月26日

<< 花たち  index  マリーン >>

© Rimbaud.KunioMonji.com