イリュミナスィオン
右手では、夏の夜明けが公園のこの隅の木の葉と靄と物音を目覚めさせる、他方、左手の斜面は、そのすみれ色の陰の中に、湿った道の何千もの迅速な轍を留めている。妖精の国の行進だ。その言葉どおり:金色に塗られた木製の動物たちと、柱とまだらの幕を積んだ何台もの山車が、20頭ものサーカスのぶちの馬の全速歩で、子供も大人も、最もびっくりするような獣たちに乗って。―昔の、あるいは、お伽話の豪華な四輪馬車のように、浮き彫りを施し、旗と花で飾られた20台もの馬車、郊外の牧人劇のために奇妙な格好をした、たくさんの子供たち;―夜の天蓋の下には、黒檀の羽飾りを立てた棺さえも幾つもあって、黒や青の大きな雌馬の早足で駆けている。
フランス語テキスト
翻訳:門司 邦雄
掲載:2003年10月26日
サーカスの霊柩車
この詩のタイトルは複数の轍 Ornières です。陽のあたる右手の斜面と、陰の左手の斜面の舞台装置は、「神秘の」を連想させます。公園の中の小山を、その南側から朝に見たと考えると、この情景描写が理解できます。
この詩は「夏」という文字が示すように、1872年の初夏から夏にかけて書かれたものでしょう。ブリュッセルの公園や祭から、その詩想を得たとも考えられます。例えばフラーズの第2部のように、夕方には雨が上がり花火が打ち上げられ、祭りの公園には立派な馬車が何台も集まった。地面が湿っていたので轍がはっきり残された……。
この「轍」を始めとして、「花たち」「神秘の」「夜明け」などは、見える者(見者)の詩法の輝かしく結実した数葉だと思います。「あの夏、この世はなんと花々に満ちていたことか!」(青春時代 III )
「轍」は、ぼくら位の年齢の者でも、未舗装の道路のある田舎でしか体験できない。妻の市子は豪雪地の高田(現在上越市)の出身で、冬には、朝起きると重い湿雪の上に様々な車の轍が残されていたことを語ってくれた。家の前には馬留の名残りがあり、戦前は馬車も留められたという。
ランボーはベルギーまでに後期韻文詩をほぼ全て書き上げ、『イリュミナスィオン』もパリからベルギーで最初の部分が作られた。ロンドンに行く時に自由詩形の「マリーン」、「運動」が加わるが、ロンドンで生活することでさらに変質していったと思えます。
夜を疾走する馬車は様々な幻影を作ります。「まだら bariolées 」は、雑多な色で塗られた(けばけばしく塗りたくられた)という意味です。雑然とまとめられた様々な色のテントや舞台幕などを、印象派の絵画のようなタッチで言い表したのでしょうか。この表現は「ぶちの馬 chevaux tachetées 」にも繋がっています。当時のサーカスで、特にブチの馬が使用されたという記録は無いようです。「全速歩」と訳した言葉は、grand galop つまり「大ギャロップ」です。20は、音(ヴァン)からも選ばれた言葉で、たくさんという意味でしょう。「奇妙な格好」は、原詩では attifés となっており、テクスチュエル版の C. ジャンコラの注によると、当時はとくに頭部の装飾のことを意味したとあります。最後の霊柩馬車ですが、パリの写真家アジェの作品に「一等霊柩馬車 Char de premiére class ( voiture de pompes funébres )」(1910年)があります。この馬車は、18世紀に遡り、装飾を豊かに施された最も高い料金の馬車との解説があります(注)。黒塗りであること以外は、お伽話の貴族の乗る馬車のように見えます。棺の方は、羽飾りを付けることがあったのか、判りませんでした。夢幻の世界が、死の世界の入口に通じていることは、「少年時代」を連想させます。「妖精の国(複数)の行進 Defilé de féeries 」という表現も理解できます。もっとも、実際にランボーが黒や青の大きな雌馬を見たのかたのかは、知る由もありません。また、ブリュッセルの祭の出し物、たとえばメリーゴーラウンドに、この詩のイメージを喚起させるものがあったとも考えられます。
注)
写真集 パリ・街・人 ― アジェとカルティエ=ブレッソン 分冊 II
財団法人 東京都文化振興会発行/1988年
解読:門司 邦雄
掲載:2003年10月26日、10月28日、2020年10月14日
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