地獄での一季節

Une saison en enfer

Matin
朝 (訳注1)

 愛されるべき(訳注2)、英雄的な、おとぎ話のような、黄金の紙に書き留めるべき青春が、おれには「かつて」(訳注3)あったのではなかったのか、―幸運すぎた! どんな罪により、どんな誤ちにより、おれは今のように衰弱しなければならなかったのだ? 獣は悲しみにすすり泣き、病人は絶望し、死人は悪夢を見ると主張する諸君、わたしの墜落と眠りを語ってはくれないか。このわたしは、「主の祈りとアヴェ・マリア」を絶えず唱えている乞食ほどにも、弁明することもできないのだ!「わたしは話すすべも分からない!」
 だが、今では、おれは地獄の体験談(訳注4)を終わらせたと信じている。あれは正に地獄だった、あの人の子(訳注5)が扉を開けた、いにしえのあの地獄だった。
 命の「王たち」、心と魂と精神の三人の博士(訳注6)が動こうとしなくとも、同じ荒れ野の中から、同じ夜に向けて、いつも、おれの疲れた目はあの銀の星を望んでいつも目覚めている。新しい労働の誕生を、新しい英知を、圧政者と悪魔の退散を、迷信の終焉を迎えに、―最初の人々として!―この世の「生誕の日(訳注7)」を拝みに、砂浜と山々を越えて、おれたちが行くのはいつなのか!
 天の歌、民の歩み! 奴隷たちよ、この世(訳注8)を呪うまい。

フランス語テキスト



訳注1) 「地獄の夜」に訪れる「朝」です。この詩の内容から、まだ夜が明ける前のようです。この詩の次の詩は、最後の「永別(別れ、決別)」ですが、これも夜明け前の詩です。
訳注2) aimable には、ジャンコラの注のように、好感の持てるという意味の他に、愛されるにふさわしいという文語的な意味もあります。
訳注3) イタリックの une fois は、「一度」よりも「かつて」の方が妥当と考えます。ブリュネルは「*****」の Jadis を対比し、、ジャンコラも autrefois と説明しています。
訳注4) la relation は、(特定の)関係と読んでいましたが、関係という意味で使われる場合は複数形が多いことも考え、篠沢秀夫の物語りという訳にならい訂正しました。旅行記などの意味でも使用されることから体験談と訳しました。なお、宇佐見斉は、両方の意味を含んでいると読んでいます。
訳注5) 原文は「 le fis de l'homme 」です。「 Fis de l'homme 」で「人の子」つまりイエス・キリストという意味ですので、定冠詞を付け小文字にすることで涜聖的な意味合いを含ませたと考えます。
訳注6) キリスト降誕の時に東方からの三人の博士( mages )が星に導かれて訪れた話を踏まえています。
訳注7) この「生誕の日」は「ノエル Noël 」で、クリスマスのことです。しかし、東方の三人の博士が訪れることはなく、また、(これからの)「この世」のことですから、過去のキリストの誕生日ではないと考えられます。ラテン語の本来の意味にしたがい「生誕の日」と訳しました。「この世」は原詩では「地上 sur la terre 」ですが、ブリュネルは、laïque (聖職者でない、世俗の)と説明しています。私はランボーが『イリュミナスィオン』の「魔神 Génie 」で描いた来るべきこの世のメシアのことを思い出して書いたのではないかと考えています。
訳注8) la vie は、人生とも訳されています。

翻訳・訳注:門司 邦雄
掲載:2001年10月17日、2006年3月1日

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