イリュミナスィオン

原宿ホコ天バンド SPUNK
Harajuku Hokoten Punk Rock Band SPUNK, Tokyo, February 1994 - Photo : Kunio Monji

Illuminations

Dévotion
祈り

 ヴォランゲンのルイーズ・ヴァナン・修道女様へ:―北海に向いた彼女の青いコルネット(修道帽)。―難船した人々のために。
 アッシュビー(灰側)の森のライオン・修道女様へ。バウ―ざわめき臭う夏の草。母親と子供の熱病のために。
 リュリュちゃんへ、―悪魔だ―「女友達」の時と不完全な教育から礼拝室好みが続いている。奴らのために!マダム***に。
 青年のおれに。あの聖なる老人に、修道士か宣教師かの。
 貧しい人々の精神に。それから、とても高位のある聖職者に。
 同様に、すべて礼拝のある記念の礼拝の場所と、赴かなければならないある出来事の中で、時代の熱狂か、おれたち自らの重大な悪徳にしたがって、
 今宵は、魚のように脂ぎり、赤い夜の十か月のように顔を赤らめた、氷の頂のシルセトに、―(あいつの心臓は龍涎香と火種)、―極地のカオスよりも荒々しい武勲に先立つ、この夜の領域よりも沈黙した、おれのただ一度の祈りのために。
 どんな犠牲を払っても、どんな姿になろうとも、たとえこの世ならぬ旅にあっても。―いや、もはや、「その時」では。

フランス語テキスト

翻訳:門司 邦雄
掲載:2001年11月28日、2003年9月20日、2020年11月12日


別れの言葉


 タイトルの「祈り」は原詩では「 Devotion 」、一般的には「献身」「敬神」という意味です。このタイトルは単数ですが、ランボーが回りの人々に、そして詩人ランボーに別れを告げているものなので(複数の意味である)「祈り」というタイトルにしました。

 1874年7月、ランボーの母親と妹ヴィタリーがロンドンで仕事を探しているランボーを訪ね、1か月ほど滞在します。この詩は、母と妹の滞在を契機に書かれ、『イリュミナスィオン』の中でも、後期に書かれた詩と思われます。

 始めの二人の修道女(シスター)について様々な解釈がありますが、私は妹ヴィタリーと母親(ヴィタリー)のことと考えます。原文では「シスター」にあたるところは ma soeur と書かれていますが、「 ma (私の) soeur (シスター)」で修道女への呼びかけとなります。
 最初のシスターの「ヴォランゲン」、「ヴァナン」はヴィタリーの頭文字「 V 」からくるのでしょうが、それ以上の意味は分かりません。「コルネット」は修道帽(修道頭巾)のことです。「難船した人々」とは、身体の弱かった妹へのランボーの同情なのでしょう。このヴィタリーの前に、同名の妹が生後3か月で死んでいます。
 次のシスター、「森のライオン Leonie AuBois 」は、後に続く「母親と子供」で分かるとおり、母親のことと思います。leonie で獅子(ライオン)のようなという形容詞(女性形)があります。AuBois は文字通り au bois で「森の」という意味と取れます。「アッシュビー Ashby 」はイギリス風の地名ですが、Ash (灰)の by (側)、つまり釜戸のそば、台所にいるという意味でしょう。「バウ」は犬の吠え声と取られています。

 第3節、「リュリュ Lulu 」は同音の繰り返しの名前で子供言葉と取れるので、「ちゃん」をつけました。ポール・ヴェルレーヌが自ら名前をもじったポーヴル・レリアン(あわれなレリアン)から来てるなど様々な説があります。「女友達」は、1868年に匿名で出したヴェルレーヌの詩集「 Les Amies 」のことと言われています。ヴェルレーヌのキリスト教への改心を皮肉っているように読めます。続く「奴ら」は、ヴェルレーヌの周りのパリ文壇の人たちのことでしょうか。ここだけ、「 à 」ではなく「 pour 」が使われていますが、音の響きで選ばれたと考えられます。マダムはヴェルレーヌの義母ではないかと思います。
 第4節以降、「貧しい人々」はキリスト教の教えの「心の貧しき者」の言い換えと読めます。そして「高位の聖職者」はキリストでしょう。
 「礼拝」は、当時のフランスで盛んであった「ルルドの泉」への巡礼を連想させます。同時に、「客寄せ道化」にあるように、植民地への帝国主義的侵略のひとつの手段としてのキリスト教を暗示しています。従って「重大な悪徳」は、植民地侵略により成り立つ当時の社会的・個人的欲望と西洋近代(資本主義)社会のシステムのことだと思います。ジャンコラは、『イリュミナスィオン』と関連付けて「救いの追求」と読んでいます。さらに同性愛、無知、麻薬、詩などの読みもあることを紹介しています。

 第6節、原語は「 Circeto 」です、キルケはギリシア神話の魔酒を飲ませ人を豚に変えてしまう妖女、魔女です。ジャンコラは、キルケ+セト( Ceto )の造語で、セトはヘスペリデスの龍を生んだ海と陸の娘と解説しています。ジャンコラの説に従い「海と陸」、陸は実は氷山ですから、「北極海」という意味に取りました。この部分は、抽象的、象徴的に、見える者の詩の世界をイメージしていると思われます。「氷 glaces 」は、「脂ぎり grasse 」と音遊びをしています。「龍涎香 ambre 」は ambre gris であり、「琥珀 ambre jaune 」とも考えられます。この言葉には、隠語で精液の意味があるそうです。Wikipedia には「龍涎香(りゅうぜんこう)あるいはアンバーグリスとはマッコウクジラの腸内に発生する結石であり、香料の一種である。」と書かれています。北極海のイメージから考え「龍涎香 ambre 」と取りました。ジャンコラは、照らされた eclairee という意味に解しています。「火種」は「 spunk (スパンク)」で、ラコストの説では、英語で火口(ほくち、火打石で火を付けるときに、まず火を移しとるもの)のことです。また、アンダーウッドの説がポショテク版のブリュネルの注に紹介され、ジャンコラも指摘していますが、spunk には英語の隠語で精液という意味があるそうです。
 かつての見える者の詩の世界を、北極の氷の上に輝くオーロラに喩えたのでしょう。このキルケは、ボードレールの詩集「悪の花々(華)」の最後を飾る詩、「旅 Le Voyage 」 のキルケから引かれたのではないかと考えています。

 ランボーにとって、ボードレールの「旅」は、彼以前の詩の到達点として意識されていたのではないかと思われます。「酔っぱらった船」は「旅」を起点として対応した詩であり、この「祈り」は「終点」として対応したのではないかと考えています。「旅 Le Voyage 」 第 I 部、第3・4節です。

ある者は忌まわしい祖国から逃げることを歓び、
他の者は恐ろしい故郷から逃げることを歓ぶ、
またある者、女の眼差しに溺れた占星術師たちは、
危険な香りを放つ、横暴なキルケから逃げることを歓ぶ。

獣に変えられないように、
彼らは天と光と赤く染まった空に酔う。
氷に噛まれて、太陽に焼かれて、
キスの痕がゆっくりと消えてゆく。

翻訳:門司 邦雄

 第8節には、「ただ一度の祈り」として、かつての見える者の苦行を超えるランボーの決意が語られます。それは、もう「この世ならぬ( métaphisiques )旅」つまり「見える者」「詩」「文学」という「形而上の旅」ではありません。

解読:門司 邦雄
掲載:2001年11月28日、2003年4月26日、9月20日、2006年4月5日、2008年10月14日、2020年11月13日

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